手塚治虫とは?~1928-1989 「マンガの神様」の妥協なき創作伝説!超人&狂乱エピソード

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マンガ

「マンガの神様」手塚治虫。

 

 

その創作に賭ける妥協なき姿勢が巻き起こす、編集者との面白過ぎるエピソードの数々をコミカライズした書籍「ブラック・ジャック創作秘話」から、私の好きな「手塚治虫の超人&狂乱エピソードTOP5」をご紹介します!

 

出典:ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜
原作:吉本浩二 / 漫画:宮崎克 / 秋田書店

 

世間のイメージとかなり違う?漫画家・手塚治虫の実像

 

手塚治虫とは。日本人で知らない人はいない有名な漫画家である一方、「いったい何が画期的だったの?」については、さまざまな意見があります。

 

 

手塚さんは4コママンガや短編が主流、長くても20ページが長編とされていた時代(1948/昭和23年)に、200ページを超える一大ストーリー巨編を立て続けに描き、大ヒットさせました。そして、映画のようなスピード感と立体感をマンガの視覚効果に取り込み、マンガ表現の可能性を一気に拡大させたことが、最初の「革命」でした。

 

 

そして、これらの作品を読んだ全国の少年少女が衝撃を受けて漫画家を志し、そこから藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫などなど、数えきれない多くの「巨星」が誕生しました。

 

そのほかにも「面白い」だけだったマンガの世界に「悲劇」を持ち込み、世代を超えて楽しめる一大カルチャー・ジャンルに引き上げたことや、マンガだけに留まらずアニメプロダクションを設立、1963(昭和38)年の「鉄腕アトム」から、「毎週30分のTVアニメ番組」というフレームを開発したことなどなど、「手塚治虫が初」なことは数えきれません(その際にアニメーターの賃金が不当に安く設定されたとか、バンクを多用するリミテッドアニメで質を下げた、など功罪の“罪”の部分が指摘されていることも事実ですが)。

 

 

そしてその実像は、世間の描く「温厚で生真面目、聖人君子的な神様」としてのイメージとはかなり異なり、執筆中は汗だくでドロドロになりながら、鬼気迫る表情で原稿に向かっていたそうです。

 

 

そして天才ゆえのエキセントリックな言動、「人間臭くてワガママ」「にくみきれないロクデナシ」な一面もありました。

 

この「ブラック・ジャック創作秘話」シリーズは、ブラック・ジャックだけではなくそれ以前、それ以降の手塚さんの猛烈な仕事ぶりを、それによって振り回され、迷惑をこうむったスタッフや編集者のコメントによって描き出す、マンガ作品です。

 

苛烈で猛烈、妥協なきプロフェッショナルな天才クリエイターの仕事に対する向き合い方に、爆笑しながらも感動を覚える、大好きな作品なのです。

 

 

天才・手塚治虫の超人・神がかった仕事ぶり伝説

 

ピーク時には週刊誌の同時連載6本、月刊11本(月刊誌8本、週刊誌3本)の連載を抱えていた手塚治虫。最高月間作画枚数はなんと600ページ!現代の普通の漫画家は多くても80ページくらいですから、7~8人分くらいの仕事をこなしていたことになります。

 

その42年にわたる生涯作品数は700作以上、15万枚。これは20歳から60歳までの40年間、16ページの連載漫画を週4本、休みなしで描き続けた量です。

 

 

さらに、連載以外にも100ページ超の単行本を年間10冊以上書き下ろし、コミックス化にあたっては過去の連載作はほぼ必ず手直しする、興味のある映画は海外まで先行上映を見に行き、いろんな集まりやパーティ、後援会にTV出演・・・さらにはライフワークのアニメ制作も、そのせいで破産したり会社を追われたりしながらも、生涯続けていました。

 

「本を読むスピードが異常に速い」「趣味の映画は年間300本近く見ていた」「1日数十分、多くても2~3時間しか寝なかった」「移動の車中や飛行機の中、布団の中、自身の結婚式や母親の葬儀中も原稿を描いていた」などなど、その伝説は枚挙にいとまがありません。

 

その作画スピードは驚異的で、ほとんど下書きなしで1時間に4枚を仕上げ、同時に複数の作品の原稿をペン入れしていくため、アシスタントもどれがどの原稿でどんな話なのか、仕上がってみないとわからない状態だったそう。

 

 

それでも「仕事の依頼を断らない」から常にスケジュールは殺人的にパンパンで、かつ各作品で一切妥協しないストイックな姿勢のため、原稿はいつも締め切りギリギリ、「落とす(間に合わない)」こともしょっちゅうでした。

 

 

口の悪い編集者からは陰で「遅虫」「ウソ虫」などと呼ばれていたのだとか。そのため出版各社には「手塚(見張り)番」と呼ばれる編集担当がいて、逃げられたり他社に拉致監禁(笑)されないよう、常に3人体制で監視していました。

 

 

それでも手塚さんは「ちょっとそこの銭湯へ行ってきます」と風呂桶を抱えゲタ履きのまま、仕事場から600kmも離れた宝塚の実家まで逃げたりしたことも(笑)。

 

 

それでは、数ある中でも特に私の好きな、手塚先生の超人・狂乱エピソードをご紹介します。

 

エピソード第5位 ●●がないと描けない!

 

ふだんは気さくで温厚な人物ながら、常に極限状態の執筆中、子供のようなワガママを言うことで有名だった手塚治虫。

 

ある時、取材で訪れた秋田で「ネーム用の鉛筆を忘れた」と言い、アシスタントがいつもの「三菱ユニの2B」を買って来ますが、手塚は「秋田のユニじゃ描けない!」と言い放ちました。

 

他にも、真夜中に「スイカ」「ケーキ」「浅草のカキの種」「六本木のコンソメスープ」「高田馬場のじゃなくて下北沢の赤いきつね」が食べたい、さらには「メガネ」「差し歯」「解明墨汁」「スリッパ」「ベレー帽」がないから「描けない!」と騒ぐため、その度にスタッフは総出で探し回るハメに・・・。

 

 

中でも当時高級品だった「ハーシーズのチョコ」がお気に入りで、スタッフが慌てて買ってくると本当に美味しそうに食べ、執筆の活力を漲らせていたそうです。

 

これは「〆切を引き延ばす作戦」「天才ゆえの理由なきワガママ」など、さまざまな憶測がありますが、当時を語る関係者が一様にそれを悪く語らず、「いやぁ手塚さんには手を焼きましたよ」と嬉しそうに語っているのが印象的です。

 

エピソード第4位 「ブラック・ジャック」読み切りを1日半で描き上げた

 

とにかく常に締め切り追われている手塚治虫ですが、ある時、「ブラック・ジャックの読み切り依頼が、マネージャーの耳にも入っていなかった」という大ピンチを迎えます。

 

1分の隙間時間もない超絶過密スケジュールの中、いま執筆中の他の原稿をすべて止めて描いても間に合うかどうか、の緊急事態。担当編集は「もうこれは完全に終了、原稿を落としてしまった」と途方に暮れていたところ、別の雑誌の100ページ企画が終わり疲労困憊の手塚が「ストーリーを3つ考えました」と声をかけてきます。

 

「どれがいいですか?」と聞く手塚さんに対し、担当者はストーリーなんか正直どうでもいい、「どれが一番早く上がりますか?」と尋ねます。すると手塚先生は「ボクは真面目にやってるんです!アナタも真面目に考えてください!!」と激怒し、仕事場に立てこもってしまいます。

 

 

「せっかく時間を割いてアイデアを考えてくれたのに、完全に怒らせた、もう今度こそおしまいだ」と担当が絶望していると・・・手塚先生は30分後、「もう一個考えました」と別案を持って来ます(笑)。

 

そしてそこから、怒涛の勢いでなんと1日半で描き上げ、なんとか連載に間に合ったそうです。

 

・・・ちなみに、手塚さんは「ブラック・ジャック」連載中、つねに3つのアイデアから1つを選んで執筆していたのだとか。なので、世に出た作品の3倍はアイデアがあったことになります。また、完成した作品をアシスタントに「イマイチ」と言われ、怒ってイチから違う話で(8時間で20ページを)描き直したこともあったそうです。

 

エピソード第3位 「海賊版」に無償でリテイク

 

1981年、手塚プロに中国から一冊の本が届きます。それは「臂阿童木」、鉄腕アトムの海賊版でした。これを手にした手塚は「ひどい…」と怒りを露にします。「外務省を通して抗議しますか?」と言うスタッフに対し「怒っているのはそのことではありません」と答える手塚さん。

 

怒りの理由は、無許可使用や著作権侵害ではなく、クオリティの低さでした。日本の縦長マンガレイアウトを無理やり横長にしたために、収録できない部分を現地の人間が勝手に描き加えていたのです。

 

手塚さんは周囲の反対の声を聞かず、「こんな絵では中国の人が楽しめない、私が原稿を直します」と、自ら描き直した原稿を無償で海賊版の版元へ送りました。

 

 

手塚さんはかつて、中国の万三兄弟が創った「西遊記 鉄扇公主の巻」を中学生のときに観て、大きな影響を受けていて、当時は中国におけるマンガ・アニメ文化の普及に尽力していたのです。それにしても作者本人が海賊版を本物にしてしまう…手塚治虫がいかにマンガを「文化」として「愛して」いたのかが伺えるエピソードです。

 

エピソード第2位 アニメ地獄

 

「24時間テレビ」(日本テレビ)の記念すべき第1回、2時間アニメ「バンダーブック」制作にまつわる、有名なエピソードです。

 

放映日2か月を切っても絵コンテなど進行がまるで進まず、遂には制作担当が突然失踪するという大事件が発生。急遽開かれた対策会議の席上、遅れている箇所を確認、役割分担して・・・としていると手塚治虫は「これ手塚やります」「これも手塚」と、ほぼすべての工程を引き受けてしまいます。しかしこれが、アニメ地獄の始まりでした。

 

 

徹夜続きでブッ倒れるスタッフが続出、野戦病院のような過酷な状況の中、なんとかギリギリでやっと(一部)試写までこぎつけると、手塚先生はほとんどの仕上がりに納得せず、「リテイク」を連発。極限状態のスタッフの不満は爆発しますが、手塚さんは「見た人には”良い”か”悪い”しかないんです」と、妥協を許しません。

 

 

そもそも無謀な連載スケジュールの中でアニメの仕事を引き受け、スタッフに逃げられながら、全部自分で引き受けてさらに自分で状況を悪化させ、それでも作品に妥協せず全力で取り組む手塚治虫・・・

 

そして放送日の開始時間ギリギリに納品。それも放映中にまだ後半の最後のリールが納品されていないという、極限状態でした。

 

しかし本作は見事、番組内最高視聴率の28%を叩き出し、大成功。そしてその本放送を見た手塚さんは・・・「全部リテイクです!!」(笑)

 

 

どんなに早くても半年は以上かかると言われる2時間のアニメ作品をわずか1か月で仕上げる、狂乱と絶望の地獄絵図。ぜひ本編で読んでみてください。

 

エピソード第1位 海外から記憶のみでスタッフに指示出し

 

1980年、アメリカで開催されるコミック・コンベンションに参加することになった手塚治虫。インターネットはおろかFAXすらない時代、前代未聞の方法で原稿を仕上げたエピソードです。

 

帰国日が最終校了日(締め切り)と重なり「人物のペン入れをした原稿をアメリカから送る」と言い残し出国するものの、ネーム(構成の下書き)さえ届かぬまま締め切り2日前に。

 

手塚は国際電話でスタッフに方眼紙で口頭でコマ割りを指示。そして、「三つ目がとおるの4話前の9ページ、2コマ目の校舎と、ブッダの前々回14ページの5コマ目の木々を組み合わせて中央の背景に」など、過去作を参考にアシスタントに背景の作画を指示。それだけではなく、「あそこにある本棚の、上から何番目にある本の、何ページにある茶色いビルを」などと指示。そしてそれを、手元に一片のメモも持たず、すべて頭の中の記憶だけでやっていた、というのです。

 

 

そして帰国して空港近くのホテルに缶詰めにされ、その背景ページに人物を描き加え、何とか締め切りは守られました。

 

いったい手塚治虫の脳内は、どんな構造になっていたのか。あまりの天才ぶりに驚愕するしかない、超絶エピソードです。

 

 

番外編 常に「新人」として他のマンガ家にジェラシーを抱き続けた天才

 

そして、手塚治虫という人のイメージが世間と大きくことなる最大の点が、「神様」と言われる大御所の地位にあるにも関わらず、他のマンガ家に対するジェラシー(嫉妬、やきもち)を抱き続け、常に「新人」であり続けた、ということでしょう。

 

ある出版社が主催した新人作家発掘コンテストで、手塚は審査員の立場にありながら「自分の作品を応募したい」と語っていました。その飽くなき情熱は時に嫉妬のカタチで暴発し、手塚さんは才能ある新人と出会うたびに驚き、落ち込み、対抗心を燃やし続けました。

 

その想いは、時に敵意むき出しの「暴言」となって露呈します。

 

1950年代、福井英一さんの柔道漫画「イガグリくん」が大ヒットすると、自分が描けないジャンルということもありその人気に嫉妬。とある雑誌で「コマ割りの悪い見本」と紹介したため、福井さんが激怒。手塚さんが謝って解決したそうです。

 

60年代には白土三平さんが連載を開始した際、手塚さんは自身のマンガに似ている!と訴え、ひと悶着ありました。その後、白土氏が歴史大作「カムイ伝」を大ヒットさせると、手塚さんのジェラシーが爆発!あの名作「火の鳥」誕生につながりました。

 

水木しげるさんの「墓場鬼太郎」を見て衝撃を受けた手塚さんは、自らも妖怪マンガ「どろろ」を執筆。出版社のパーティの席上で水木氏に「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたのマンガぐらいのことは僕はいつでも描ける」と言い放ったと言われています。

 

石ノ森章太郎さんがガロに掲載した「ジュン」でセリフなし、ポエムとマンガを融合させ新たな境地を開いた才能に嫉妬し、手塚はファンレターの返事やインタビューで「あれはマンガじゃない」と批判。ショックを受けた石ノ森は連載を中止してしまいます。すると突然、石ノ森の自宅に手塚本人が現れ「申し訳ないことをした。なんであんなことを言ったのか、自分で自分がイヤになる・・・」と謝罪しました。

 

 

さいとう・たかをさんや辰巳ヨシヒロさんらの劇画ブームが巻き起こると、手塚さんは「自分の絵柄は古臭いのか」「自分の時代は終わったのか」と悩み、苦しみ、ノイローゼになるほどのたうち回りました。その後、劇画のタッチを取り入れて誕生したのが「ブラック・ジャック」だと言われています。

 

「巨人の星」「あしたのジョー」などのスポ根が流行ると、手塚さんはスポーツ漫画だけはどうしても描けず、スタッフに「どこがおもしろいのか教えてくれ!」と聞きまくり、挙句に水島新司さんに「君はいいよねえ、野球の試合だけ描いてればいいんだから」と発言したそうです。(その一方で「ドカベン」のかすれた独特の集中線をアシスタントに見せて「こんな感じで」と取り入れたりもしていたそうです)

 

誰よりも手塚に憧れて漫画家になった藤子不二雄は1987年にコンビを解消、以降は藤子・F・不二雄藤子不二雄Aに分かれて活動していくことになりました。その発表パーティに参加した手塚さんは「これで同等に勝負できる」「2人がかりでは勝てないが、1人ずつなら勝てる」と発言。後輩、フォロワーである藤子コンビを手塚はあくまでライバルとして捉えていました。

 

「AKIRA」で大人気を博した大友克洋さんに初めて会った際、手塚さんは「僕は君の絵なら描ける。僕が唯一描けないのは諸星大二郎の絵だけだ」と発言したと言われています。手塚さんは晩年、大友さんの作画技術の高さに激しく嫉妬していたとのこと。

 

「美形の敵キャラ」が流行したとき、手塚さんは「そんなのおかしい」と猛批判。しかしすぐに「美形の敵キャラがうまく描ける人を紹介して欲しい」と言い出し、自らの作品に登場させたと言われています。

 

・・・このようなエピソードはほかにもたくさんあります。

 

 

手塚さんはその仕事量の多さから、商業マンガ執筆で初めてアシスタント制度を取り入れたとも言われていますが、アシスタントが入社すると食事に連れて行き、笑顔で「早く辞めてください」と言っていたのだそう。早く自分の作品を描き、一人前のプロになれという激励の言葉でした。

 

1989年2月9日、奇しくも昭和の終わりと共に、手塚治虫さんは永眠しました。その最期の言葉は「仕事をする。仕事をさせてくれ。」だったそうです。

 

 

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