いま人気絶頂のバンド「 Official髭男dism」をSpotifyで聴いていると、いつもあるミュージシャンを思い出します。同世代の人で同じ感想を持つ人も多いようで。
そのミュージシャンとは・・・原田真二さんです。
まだアーティストではなくシンガーソングライター、ライブではなくコンサート、リリースされるのはレコードだった時代。それでもこの方の楽曲は、いまの若い世代が聴いても十分に通用する、普遍的な魅力に溢れています。
今回は”早すぎた天才”原田真二さんをご紹介します。
●シングル3曲連続発売、衝撃のデビュー
原田真二さんは1958年広島生まれ。広島の高校2年時に「フォーライフ・レコード新人オーディション」に応募のあった3,000曲の中から吉田拓郎さんに見出され、1977年10月に18歳で「てぃーんず ぶるーす」(吉田拓郎プロデュース)でデビュー。
翌11月に2ndシングル「キャンディ」、12月に3rdシングル「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続でシングルをリリースするという異例の「トリプルデビュー」を果たし、3曲同時オリコンベスト20入りの日本音楽史上初の快挙を達成します。
翌1978年2月、1st.アルバム「Feel Happy」がオリコン史上初の初登場第1位を獲得(4週連続1位)。10代(19歳3ヶ月)でファーストアルバム1位を獲得した男性ソロシンガーはいまだに、原田真二さんだけ(女性ソロでは宇多田ヒカルさん)です。
そしてこの年の7月24日、「デビュー1年目(9ヶ月)、10代ソロ歌手で史上初」の日本武道館公演を開催。この模様はステージドキュメント映画「OUR SONG and all of you」として公開されました。
12月31日には4thシングル「タイムトラベル」で「第29回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしています。
ファンクラブ会員は3万人ともいわれ、熱狂的な人気を誇りました。
●”天才”原田真二の才能
オーディションに送られたテープ(当時17歳)は作詞作曲はもちろん編曲(アレンジ)、ピアノ、ギター、シンセサイザーなどの演奏から多重録音までを一人でこなしていたとされ、吉田拓郎氏は「テープを聴いてブッ飛んだ。天才的ひらめきを感じた。ボクや陽水の次の世代の歌手だ」と当時のインタビューで語っています。
オーディションに合格した原田真二さんは高校卒業後のデビューと決まりますが、高3の夏休みにレコード会社の招待で上京。銀座にある「音響ハウススタジオを自由に使ってよい」とと言われ、3曲ほど多重録音を行っています。
なんとそのスタジオには吉田拓郎さん、井上陽水さん、小室等さん、泉谷しげるさんなど当時のフォーライフの大御所たちが全員見学に訪れ、質問攻めに合う中で「自由どころか、すごいプレッシャー」の中での初レコーディングになったそうです。
デビュー曲は「まずは知名度のある自分が曲を書いて」と考えたプロデューサー吉田拓郎さんと、最初から自作曲で勝負したいと強く希望する原田真二さんの間で意見が合わず揉めますが、結局原田真二さん作曲の楽曲で行くことに決まります。
ただし、詞に関しては自作詩ではなく「流行歌として商業ベースに乗せられることが可能な作詞家」として、松本隆さんが起用されました。
しかしその才能はデビューアルバムに参加した鈴木茂が「ほとんどやることがなかった」と語るほどで、デビューアルバムから楽器演奏、プロデュース(吉田拓郎と共同名義ですが、実質セルフ)までを行っています。
原田真二さんの楽曲は当時「これまでの邦楽にはなかった洋楽的センス」が高く評価され「ピアノを弾きながら唄うロック」スタイルは斬新で、従来のフォーク出身者がほとんどだったニューミュージック界に新風を巻き起こします。
●”アイドル”としての超人気
原田真二さんの人気はミュージシャン、アーティストとしてではなくその「可愛すぎるルックス」に集まり、女子中高生を熱狂させる「アイドル」として高まります。
ちょうどこの年、1978年1月にスタートしたTBS「ザ・ベストテン」には第3回(2月2日)から出演。ほぼ同時期にデビューしたChar、世良公則&ツイストと共に「ロック御三家」と呼ばれ「月刊明星」「月刊平凡」「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌などにも頻繁に登場し、当時の「新御三家」などの男性アイドルを上回る瞬間風速を記録します。
これは吉田拓郎氏と当時の所属事務所アミューズの大里洋吉氏(現アミューズ会長)がとった戦略でした。吉田拓郎さんも出ていないTV出演を嫌がる原田真二さんを、当時の吉田拓郎さんの妻である浅田美代子さんが説得して承諾させたと言われています。結果的にこの大ヒットが「TVに出るロックミュージシャン」路線(ロックがアイドル、歌謡曲化することでメジャービジネス化する)のきっかけとなり、ゴダイゴや甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが続き、そして原田真二さんが抜けた後のアミューズからサザンオールスターズが登場。いまに続く多くのアーティストのセールス手法に活かされることになります。
なにせ当時の歌番組の生放送は番組専属のオーケストラのバック演奏で唄うことが主流。自らのバンドを率いて演奏する原田真二さんのスタイルは現場でかなり揉めたそうです。「返しのモニタースピーカーがない」「セットチェンジする時間がない」などは日常茶飯事で、それに改善要求を突きつける原田真二さんは「新人のクセに生意気だ」とバッシングを受けることも度々でした。原田真二さんご本人は「そこを一番最初にちゃんと改善してくれたのは「ザ・ベストテン」。スタジオ内に多チャンネルのミキサーを置いてくれたし、目の前にモニタースピーカーも用意してくれた。その後「夜のヒットスタジオ」なども良くなっていった。「ミュージックフェア」は昔から良かった」などと語っていますが、こうした苦労がTVの音楽番組のあり方も変えていったのです。
なまじアイドル然としたルックスなだけに「ミュージシャンとしてのプライドと明確な主張」は芸能界と多くの軋轢を生みました。新人でありながら「レコード大賞」をはじめとする音楽賞レースを早々に辞退し、マスコミは猛バッシング。原田真二さんは当時を「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」と振り返っています。
●「アミューズ」第1号所属タレント
原田真二さんはデビューにあたり、元渡辺プロダクションの大里洋吉さんが設立した新会社「アミューズ」の第一号所属タレントとしてマネージメントされました。
大里洋吉さんはキャンディーズ解散騒動の責任を取る形でナベプロを退社、独立することになりますが、キャンディーズの楽曲制作で吉田拓郎さんとつながりがありました。
「アミューズ」は後にサザンオールスターズの大ブレイクにより大手プロダクションとなりますが、当時は原田真二さんのために設立された弱小個人事務所でした。「シングルではなくアルバムセールス中心のアーティストのためのプロダクションを経営したい」と考えていた大里さんに、原田真二さんに最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフがプロモーションとマネジメントを持ちかけたと言われています。結局、原田真二さんは方向性を巡りアミューズを半年で退社しますが、入れ替わりに手がけたのがサザンオールスターズでした。大里さんは後に「原田が辞めていなかったら、サザンオールスターズを売り出す余裕はなかった」と語っています。
●松本隆さん
作詞を担当した松本隆さんは、デビュー曲の「てぃーんずぶるーす」について「はっぴいえんど時代の作詞イディオムをそのままプロの作詞家として通用できると確信した」と語っています。この経験が80年代以後、近藤真彦さんや松田聖子さんの楽曲で活かされることになりました。
松本さんは「まだ若いんだから自分がのたうちまわるような歌詞にしたほうがいい」「原田を見たとき、男の子の痛み、壊れやすい少年の世界観が表現できると思った」「原田がセールスに結び付けられたことで、”男の子のアイドル” “ボクの少年シリーズ” を、後の近藤真彦で集大成させた」とも語っています。「てぃーんずぶるーす」からの「スニーカーぶる~す」なのですね。
●幻の「ジョン レノン プロデュース」計画~その後
その後の原田真二さんは1979年に2ndアルバム「natural high」をリリース。初のロスアンゼルス海外レコーディングで英語詞以外の作詞、作曲、編曲、プロデュースを手がけます。
そして1980年、21歳で事務所を独立、株式会社クライシスを興しレコード会社もポリドールに移籍してソロ名義から原田真二&クライシス(SHINJI & CRISIS)として活動を開始。
この年の夏頃、ジョン レノン プロデュースの話が持ち上がるも12月8日、ジョンがニューヨークで凶弾に倒れ、幻に終わりました。原田さんは「ジョンが亡くなる年の夏ぐらいから話が出ていて、その話はオノ ヨーコさんのところへも行ってて『ジョンもすごく気に入ってるから、これを進めようと思うんだけど』と。ただ、僕はポール マッカートニーはすごく聴いていたんですけど、ザ ビートルズは全く聴いていなかったんで、ジョンのこともそんなに知らなかったんですよ。だから『それは面白いですね』ぐらいのテンションだったんですけど、後からだんだん『凄い人だったんだ』って分かって(笑)。で、その秋に具体的な打ち合わせに入って、翌年に実現するプロジェクトになっていた」と語っています。
10月に3rdアルバム「HUMAN CRISIS」発売。ポップから”ハードプログレ”への急速な進化に、アイドル視していた女性ファンは戸惑い、一斉に離脱。
そして1981年12月25日、中野サンプラザでのクリスマスコンサートのステージ上から、米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)を発表します。
以降はセールス的には苦戦を強いられながらも、本来やりたかった音楽を目指して突き進んでいくことになりました。
「普通は人気が確立されてから独立を考えますが、そういう状況じゃなく独立したので、たちまちイメージしていたものが打ち砕かれて大変な状況になった。今思えば無謀。でも、だからこそ経験できたこと、学べたことがいっぱいあった。ほとんどのアーティストは売れるまでに下積み時代があるのですが、僕にはそれがなかった。必要だからこそ通ってきた道なんだろうなあと今、思う」
その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表。現在までにリリースされたアルバム・シングルは50枚以上に上ります。
●佐野元春さんとの関係
原田真二さんより少し遅れて1980年にデビューした佐野元春さん。私は個人的に原田真二、佐野元春、大沢誉志幸、吉川晃司という流れで日本のロックシーンを観てきたのですが、このお二方は意外なほど、接点がありません。
強いてあげればドラマーの古田たかしさんが原田真二さんのバンド「CRISIS」と佐野元春さんのバンド「The Heart Land」の両方に正式メンバーとして加入していて、そこを接点に佐野元春さんのラジオ番組に原田真二さんが出演、ということがあったそうなのですが、ステージでの共演はありません。ご本人同士がお互いをどう思っている(いた)のか、聞いてみたいところです(笑)。
●ソングライターとして:吉川晃司さんとの関係
80年代以降、原田真二さんはソングライターとしても活躍。中でも私は、初期の吉川晃司さんに提供した楽曲のファンです。
吉川晃司さんはナベプロからのデビュー時に、当時のプロデューサー木崎賢治さんから「日本語ロックの歌唱法の参考に」と楽曲を聴くように言われたそうで、ご本人も「ボーカリストとしてもっとも直接、影響を受けたのは、シンガー ソングライターの原田真二さんです。日本語で洋楽のようなグルーブ感を出す歌い方を聴いて、衝撃を受けました。同じような意味で佐野元春さんにも影響を受けました。」と後に語っています。
原田真二さんは当時「意外と日本に彼みたいなの(スタイリッシュな男性ボーカリスト)がいなかった」「気合を入れていくつも楽曲を書いたのに、ボツにされてムカついた(笑)」と語っていました。
■原田真二さんの吉川晃司さんへの提供楽曲
<1stアルバム「パラシュートが落ちた夏」>
フライデー ナイト レビュー*
<2ndアルバム「LA VIE EN ROSE」>
ポラロイドの夏
Big Sleep
太陽もひとりぼっち
<3rdアルバム「INNOCENT SKY」>
心の闇(ハローダークネス)
<4thアルバム「Modern Time」>
Mis Fit
<シングル>
キャンドルの瞳*
永遠のVelvet Kiss
*は原田真二さんセルフカバーVer.(ミニアルバム「Plugged」に収録もあり。
●原田真二さんオススメ楽曲
最後に、私の好きな原田真二さん楽曲をご紹介します。
「てぃーんず ぶるーす」(1977年10月25日)
作詞:松本隆/作曲:原田真二/プロデュース:吉田拓郎・原田真二
▲デビュー曲。このルックスとセンス、そしてやっぱり松本隆さんの歌詞が素晴らしい。
「キャンディ」(1977年11月25日)
作詞:松本隆/作曲:原田真二/プロデュース:吉田拓郎・原田真二
▲2ndシングル。初めて聴いてもどこか懐かしいメロ。これって「Michelle」ですよね。
「シャドー・ボクサー」(1977年12月20日)
作詞:松本隆/作曲:原田真二/編曲:後藤次利/プロデュース:吉田拓郎・原田真二
▲78年の武道館コンサート映像。思いっきりロックテイストです。原曲はアレンジャーとしての後藤次利さんのデビュー作(!)レコーディングにはキーボードで坂本龍一さんも参加してるとか。
「タイム・トラベル」(1978年4月10日)
作詞:松本隆/作曲:原田真二/プロデュース:原田真二・吉田拓郎
▲同武道館。髭DANファンはコレ聴くと意味が分かると思います。スピッツもカバーしました。
「雨のハイウェイ」(1983年5月5日)
作詞:松本隆/作曲・編曲:原田真二
▲約1年に及ぶアメリカ留学から帰国。古巣フォーライフレコードに復帰しての第1弾シングルです。
「Modern Vision」(1984年3月21日)
作詞/作曲/プロデュース:原田真二
▲1997年のSpecial Session。桜井哲夫(ba)/神保彰(dr)/佐藤泰吾(kb)
この曲なんか、和製Princeですね。。。
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