「六本木心中」のアン ルイスさん。
現在は完全に芸能感を引退され、表舞台に登場しないこともあり「語られない」にも程があるお方ですが・・・日本の女性ロックボーカリストの草分け的存在として、数々の名曲を残しています。
ド派手でケバいのに品の良さを失わない希少なキャラと、ネイティブな英語の発音、そしてなにより歌のうまさと美声が魅力的な”ロックな姉御”でした。
●デビュー~上質な”アメリカンポップス”アイドル時代
アンルイスさんは1956年神戸生まれ、本名アン リンダ ルイス。父は米国海軍の軍人で母は日本人のハーフです。その後横浜 本牧のベイサイドコート(米海軍住宅地)で育ち、芸能界入りのきっかけは14歳のときに横浜の外国人墓地を散歩中、作詞家のなかにし礼さんにスカウトされたことなのだそう。なかにし礼の事務所「なかにし礼商会」に所属しますがほどなく解散となり、渡辺プロダクション(傘下の「サンズ」)に移籍。デビューから数年間は、清純派のアイドルシンガーでした。
歌手としてのデビュー作は1971(昭和46)年の「白い週末」(ビクターレコード)。札幌オリンピック(のプレイベント)のテーマソングなところが時代ですね。
1974(昭和49)年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」(作詞:なかにし礼/作曲:平尾昌晃/編曲:竜崎孝路)がヒット。ナベプロ所属だけあって「8時だよ全員集合」などに出演した映像が残っています。
その”清純派”イメージを払拭し”やさぐれロック”化したのは1978(昭和53)年。
「女はそれを我慢できない」(作詞/作曲:加瀬邦彦、編曲:佐藤準)
アンさん曰く「可愛い子ちゃん歌手のイメージを捨てたくて女ジュリーをやろうと」沢田研二さん楽曲を数多く提供していた加瀬邦彦さんに依頼したのだとか。
この時期、
1979(昭和54)年には山下達郎さんによる和製16ビートディスコの傑作「恋のブギ・ウギ・トレイン」(作詞:吉田美奈子、作曲/編曲:山下達郎)
1980(昭和55)年には竹内まりあさんがアンさんと桑名正博さんとの結婚祝いに贈った「リンダ」(作詞/作曲:竹内まりや、編曲:ブラッド ショット/谷口陽一/山下達郎)
などのヒット曲があります。ちなみに大瀧詠一さんの名曲「夢で逢えたら」も当初はアンさんに提供する予定の楽曲だったそうで”上質な和製アメリカンポップスを唄わせるならアン ルイス”とのイメージがあったことを伺わせます。
1981(昭和51)年、長男(美勇士)産休からの復帰1作目となるシングル「ラ・セゾン」(作詞:三浦百恵、作曲:沢田研二、編曲:伊藤銀次)が豪華な作家陣の顔ぶれで話題を呼び、オリコン3位まで上昇。TBS「ザ・ベストテン」唯一のランクイン曲となりました。
1983(昭和56)年にはNOBODY作曲のシングル「LUV-YA」、Charプロデュースのアルバム「HEAVY MOON」をリリース。ジョニー吉長、ルイズルイス加部らピンククラウドのメンバーがバックをつとめ、Charのデビュー曲「NAVY BLUE」もカヴァーしています。
1984(昭和57)年リリースシングル「薔薇の奇蹟」(作詞:柴山俊之/作曲:大沢誉志幸/編曲:伊藤銀次)は「SM」をモチーフにした歌謡ロックで、TVパフォーマンスの過激さが話題になりました。
●「六本木心中」「あゝ無情」と吉川晃司
そして1984(昭和59)年、「六本木心中」(作詞:湯川れい子/作曲:NOBODY/編曲:伊藤銀次)が誕生します。
この曲は当初目立ったヒットだったワケではないのですが、翌1985(昭和60)年からテレビ朝日で放送されたとんねるず出演の深夜ドラマ「トライアングル・ブルー」の主題歌として認知され、その後有線、カラオケでジワジワと売れ続け、いつの間にかロングヒットとなったロック楽曲としては珍しい売れ方でした。
そのためTBS「ザ・ベストテン」は最高16位止まりでランクインならず、しかし1985年10月17日放送「ザ・ベストテンIN静岡」の「今週のスポットライト」コーナーで生出演を果たしています。
1986(昭和60)年の「あゝ無情」(作詞:湯川れい子/作曲:NOBODY/編曲:佐藤準)もヒットし、アン ルイスさんは「歌謡ロックの姉御」的なポジションを確立。
吉川晃司さん、チェッカーズ、小泉今日子さん、バブルガムブラザーズ、とんねるずらと共に「バブル期の六本木」を象徴するキャラクターになりました。
作詞の湯川れい子さん曰く「この2曲のモデルはいずれも吉川晃司」。ナベプロの先輩後輩でデビュー以来姉弟関係だった吉川晃司さんの大人気ブリがこの曲のインスピレーションとなり、1985年10月2日放送の「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ)で見せた過激なコラボレーションはいまだに話題に上ります。
▲スタジオゲストのアントニオ猪木さんはこのパフォーマンスをどう思ったのかw
その後も
1987(昭和61)年「天使よ故郷を見よ」(作詞:川村真澄/作曲:西田昌史/編曲:佐藤準)
1989(昭和62)年「WOMAN」(作詞:石川あゆ子/作曲:中崎英也/編曲:佐藤準)
とヒットを連発。CMタイアップで大量に露出され、カラオケの定番曲としてジワジワ売れ続けました。
●伝説のTVプログラム「Merry X’mas Show」
吉川晃司さんと桑田佳祐さんが主導した日本テレビ「Merry X’mas Show」(1986/1987)にも出演。この3人にBOφWYの氷室京介さんを加えた”ロッケストラ”の紅一点ボーカリストとして、ユーミン、原坊とトリオでキャンディーズの「年下の男の子」をコーデッツアレンジで唄うなどして独特な存在感を示しました。>この番組についてはコチラ
そして全盛期のアンルイスさんのステージを支えたのが、上の「ロッケストラ」でもカッコいい、骨太すぎるギターの”デカパン”こと依田稔さん。2017年にお亡くなりになったそうで。。。ご冥福をお祈りいたします。
●芸能界引退
1995年に記者会見で自らパニック障害であることを打ち明け、しばらく父親の母国アメリカに在住していましたが、2005年11月23日にセルフカバーアルバム『REBIRTH』を発売と同時に音楽活動を再開。
その後、2013年、元夫の故・桑名正博さんと息子の美勇士さんの親子3人共演CDを発売すると同時に、これをもって完全に芸能界引退と発表されました。
●『ANN LEWIS GREATEST HITS WITH COVERS』
2018年に、アン ルイスさん自らが初めて監修、選曲したベストアルバムと12組のアーティストによるカバーコラボレートアルバムが発売されています。
DISC 1:「グッド・バイ・マイ・ラブ」「恋のブギ・ウギ・トレイン」から「六本木心中」「あゝ無情」「WOMAN」など代表曲を収録したベスト盤。
DISC 2:Char、山下達郎、竹内まりや、西寺実(西田昌史、寺田恵子、二井原実)、Zi:LiE-YA、大滝詠一らによるアン ルイスのカバー、平尾昌晃や吉川晃司とアン ルイスによるコラボ曲、そしてアン ルイス自身による英語詞セルフカバーを収録。
このアルバムにも収録されている吉川晃司さんとのデュエット曲「ODEON」(作詞:吉川晃司 作曲:後藤次利/吉川晃司 編曲:後藤次利)。当初は吉川晃司さんのシングル「マリリン」のc/wでボーカルのないインスト曲でした。このアルバムの「ODEON 19860318 吉川晃司 withアン・ルイス」は、お二人の貴重なWボーカル入りの音源になっています。
吉川晃司さんのコメント「当時ディスコを経営していた友人からの依頼で作った店のテーマ曲に英語の歌詞が欲しく相談したところ、「Koji、これは男女のデュエットが良いね、一緒に歌ってあげようか」と有り難い一言で生まれた曲です。アンさんは私にとって永遠の歌姫であり、永遠の姐御です。」
コメント
拝啓 相変わらずの残暑の中、サイトヘッド様にはよろしくお願い申し上げます。
*「確実にJPop=当時和製ポップスの世界を造った歌姫アン・ルイス」
サイトヘッド様は、「アン・ルイスの激変変身後のロッカー」としての彼女に興味関心が在るご様子ですが、自分は正反対であり「デビューからロッカー変身直前」までがアンの姿だと思っています。 デビュー当時の1970年代初期は、なぜか日本には「アジア系=台湾香港シナ等から、アグネス始め彼女の姉のアイリーン、チェルシアチャン、ファンイーツン、更にはオーヤンヒィヒィ」等が溢れていました。中には大成功した人も居たし人知れず消えた人も数多かった、、、、実は沖縄等からも何人か発掘されたのですが、不思議と欧米からの人ってぇ少なかった。そんな中で「アン・ルイスは大成功した数少ないトップスター」でしたね。
当時、バラエティ等のまぁ次元の低い番組などにも引っ張り出され「ナイスバディーの水着」等も披露され悩まされましたが、、、、意外と誰も知らないのが「アンの父親も一時日本でタレント活動していた」のですね。某バラエティで「ショーバイショーバイっ」なんてぇ風呂敷広げて怪しい日本語しゃべくって結構人気が在ったのですが記憶されておられますか?
同時期アンは「なかにし 平尾 竜崎の当時最高のヒットメーカーによる3部作=グッバイマイラヴ ハネムーンインハワイ フォーシーズン」等のグレートヒットを連発してJPopシンガーとして不動の地位を築きます。とにかくこの3部作は、今考えれば「ストーリーになって」おり素晴らしかった。「唯の連発職人=阿久悠をはるかに凌ぐ本当の天才=なかにし礼の素晴らしい詩 ヨーロピアンスタイルをホールドした平尾昌晃のおセンチで見事な変化に富んだ素敵なメロディー 竜崎孝路の変幻自在のアレンジオーケストレーション(特にサックスとハープ、ピアノの使い方が見事) により未だに忘れられぬ不滅の名曲となりました。
この時アンはアルバムの中で「明日になったら 作編曲=川口真」が忘れられぬ名曲です。
平尾&竜崎コンビとは全く異なる徹底してアメリカンナイズされたメロと、弦を使わず当時流行りのフェンダーエレピの多用とチャイム(チューブラベル)は素晴らしい効果を生み、アンの歌唱も激変していましたので、此処らへんあたりから「ロッカーへの道」も見えて来たのではないか?とも推測されます(現在この名曲は何処でも聴けませんが素晴らしい名曲であり、ぜひぜひ一度は聴いて勉強して頂きたい曲です)
何故アン・ルイスがJPopシンガーからロッカーにムーヴメントしたのか?は解りませんが、やはりロッカーの方が自由度が高く、企画に縛られるJPOpは辛かったのかもしれませんね。
思えば1970年代最高のJPopシンガー「アン・ルイス」 自分は貴女を決して忘れない!!
敬具