「グレート草津と国際プロレス」〜1968-1981

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プロレス
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前回の「グレート草津失神事件」その後。今回はグレート草津と国際プロレスについてご紹介します。おそらくはグレート草津について語るのはこれで最後になると思いますので(笑)、国際プロレス(TV中継)の歩みと共にご紹介します。

ちなみに…私は福岡生まれ福岡育ちのため、モノコゴロついた頃にはすでに国際プロレスの中継はなく、まさに「幻の」団体でした。そのため後年、DVDや関連書籍から後付けで仕入れた知識のみで、語るのもおこがましいのですが、知れば知るほど味のある、ユニークな団体なんですよね…国際プロレスについてはこれからも何らか、ご紹介できればと思っています。

 

●グレート東郷離脱、「TBS」から国際プロレスへ

 

1968(昭和43)年1月の放送開始時は好スタートを切った「TBSプロレス」。その後、団体オーナーの岩田氏が団体運営から撤退、吉原代表が復権を果たします。

 

同年2月、外人レスラーのブッキングを担当していたグレート東郷との間でブッキング料を巡り揉め事が起こり、東郷が招聘した外国人選手の出場ボイコット、という事件が発生。

TBSプロレスは東郷と絶縁し、TBSはイメージ悪化を怖れて団体名を国際プロレスに戻しました。

 

●強豪ガイジンが集結、黄金期へ

 

国際プロレスのTBSでの放送は水曜19時から1時間枠で「TWWAプロレス中継」として放送され、視聴率的にも日本テレビとは及ばないものの20%台とまずまずの数字を残し、その放映権料で団体の台所事情も潤い始めます。

 

東郷との絶縁で北米ルートを絶たれたガイジン招聘も、アマレス協会の八田一朗氏のコネでヨーロッパへ進出。

 

これによりビル ロビンソン、ビリー ジョイスなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツのホースト ホフマン、フランスのモンスター ロシモフ(アンドレ ザ ジャイアント)、欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ ゴーディエンコなど、数多くの強豪、名レスラーが国際プロレスに続々と初来日を果たしました。

 

この時のヨーロッパとのコネクションで立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAです。

 

その後、カナダのカルガリー、アメリカからは1970(昭和45)年にAWAの実質上のオーナー、現役世界ヘビー級王者のバーン ガニアが来日。国際の主力勢を相手に防衛戦を行い「AWA極東支部」の看板を掲げ本格提携がスタート。

 

エドワード カーペンティア、マッドドッグ バション&ブッチャー バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーが数多く来日し、国際プロレスはその名の通り、日本プロレスと遜色ないガイジンレスラーが揃いました。

 

●幾度となく放送日が変更、視聴率低迷

 

その後も日本プロレスから同日に興行をぶつける妨害策を受け続け、加えて1972(昭和47)年に入ると前年からの「ニクソン ショック」の煽りで広告料が半減。TBS経費削減の煽りで国際プロレス中継は30分に短縮されてしまいます。

 

4月からは日曜日夜6時へと移行して1時間枠が復活しますが、それも半年間で10月からは再び30分枠に。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、視聴率も10%を切る週が目立ち始めます。

 

1973(昭和48)年に入ると視聴率はさらに悪化し、日本テレビの「全日本プロレス中継」やNETの「NET日本プロレスリング中継」→「ワールドプロレスリング」と比べ「TWWAプロレス中継」は平均5%台と最下位に。

 

国際プロレスはお家芸の「金網デスマッチ」で必死の差別化を図りますが、放送コードに引っかかり思うように電波に乗せられず、10月からはまたまた放送時間が土曜午後に移動したことに加え、愛知や大阪などの大会場を放送エリアに抱える中部日本放送と朝日放送の放送が遅れるなど、状況はますます悪化します。

 

同年3月30日にはNETが「NET日本プロレス中継」を打ち切った上で翌週4月6日から新日本プロレス中継に変更して「ワールドプロレスリング」へ再改題。

 

そして同年4月20日には日本プロレスが崩壊。国際プロレスvs日本プロレスの長年のライバル関係は終焉を迎え、プロレス界は国際、新日本、全日本の新たな三国時代に突入します。

 

●ブッカー草津とストロング小林の対立が離脱を招き、TBS中継打ち切りへ

 

旗揚げ当初、エースに見込まれたグレート草津はそのポジションをストロング小林に譲り、タニマチへの顔の広さを買われ営業兼ブッカー兼選手として活躍していました。

ところが1974(昭和49)年2月、IWA世界ヘビー級チャンピオンであるエース、ストロング小林が辞表を提出。新日本プロレスのアントニオ猪木との対戦をブチ上げ離脱します。

 

この裏にはグレート草津のストロング小林に対する目に余るイジメやパワハラがあったとされますが、吉原代表は営業力のある草津を咎めることはできなかった、と言われています。

そしてついにTBSは1974(昭和49)年1月28日の「’74パイオニア・シリーズ」岩手県営体育館大会を最後の番組収録とした上で、同年2月に番組打ち切りを正式発表。3月30日をもってTBSの「TWWAプロレス中継」の放送が終了しました。

 

●東京12チャンネルでの放送スタート

 

この窮地を救ったのは吉原代表の早大レスリング部の盟友、東京12チャンネル(現 テレビ東京)の白石剛達 運動部長でした。

 

東京12チャンネルは数回の単発放送の後、9月23日から月曜20時からの1時間枠で半年ぶりとなる国際プロレスのレギュラー中継を再開。

 

復活初回放送は「TWWAプロレス中継」と同じ、日大講堂大会からの生中継でした。

 

 

●全日本プロレスとの交流

 

国際プロレスは全日本プロレス旗揚げに際し、サンダー杉山を友好トレード、1972年11月29、30日にはジャイアント馬場が国際プロレスに友情参戦するなど友好関係にありました(ここでもグレート草津はタッグを組む際、大先輩の馬場に対し「自分の前を歩け」と要請して、再び馬場をムッとさせたといわれています)。

 

TBS放送打ち切り後初のシリーズとなった「’74チャレンジ シリーズ」は国際・全日本提携記念シリーズとして開催され、全日本からジャイアント馬場をはじめ高千穂明久、サムソン クツワダ、大熊元司の4選手が参戦。

 

さらに1975(昭和)年12月に全日本プロレスが開催した「オープン選手権」にはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参加(外国人選手ではバロン フォン ラシクとホースト ホフマンがAWAのブッキングで参戦)。

 

1977年12月の「世界オープンタッグ選手権」にもラッシャー木村とグレート草津が国際プロレス代表チームとして参戦し、マイティ井上も高千穂明久との混合タッグで出場しています。

 

その間の1976年3月28日には蔵前国技館にて全日本との対抗戦開催(メインイベントはラッシャー木村vsジャンボ鶴田)。

 

以降も1977年11月の「全軍対抗戦」、大木金太郎の金一道場を加えた1978年2月の「全日本・国際・韓国 全軍激突戦」など、対抗戦形式の単発シリーズが開催されます。

1978年11月に国際プロレスが主催した「日本リーグ争覇戦」にも、ジャンボ鶴田、キム・ドク、ミスターサクラダら全日本プロレスの選手が参加しました。

 

これらは全国ネットを持つ日本テレビに国際プロレスのレスラーが映る宣伝効果を期待したものでしたが、興行力の差で営業面でおいしいところを全日本プロレスに持っていかれ、TV中継も日本テレビと東京12チャンネルの力関係でジャイアント馬場、ジャンボ鶴田など全日本トップ選手との試合は(国際プロレスの主催興行でも)東京12チャンネルでは放送時間ができない、あるいは制限されるなど、“不平等“を強いられました。

 

その後、国際プロレスは提携先を新日本プロレスに変更。両団体を傘下とする日本レスリング コミッションを設立して国際のIWA世界ヘビー級王座とIWA世界タッグ王座、新日本のWWFジュニアヘビー級王座のタイトルマッチが団体間で行われるなどしますが、団体運営はさらに厳しさを増します。

 

●草津の引退

 

グレート草津は1979(昭和49)年8月26日に日本武道館で行われた東京スポーツ主催「夢のオールスター戦」にも各団体の主力選手でただ1人、参加していません。

 

これは草津が坂口征二とのシングルマッチで負けることを拒否したからとも、遺恨の深いジャイアント馬場が出場を拒否したものとも言われますが、ファンからしても草津は「出ても出なくてもどうでもいい」存在でした。

そして1980(昭和50)年7月、グレート草津は地元である熊本大会で6人タッグマッチ出場中、試合開始早々に足を負傷。

 

入院した草津はアキレス腱断裂と診断され長期欠場となり、そのままリングに上がることもないまま、フロントに専念するために現役を引退しました。

 

練習嫌いの草津は試合前にロクにウォーミングアップもせず、雪の日にTシャツを着たまま試合しようとしたり、時には腕時計を外し忘れることすらあったそうで、パートナーのマイティ井上をして「プロレスを舐めてる」と言われる程でした。

 

●TV放送終了、国際プロレス崩壊へ

 

1981(昭和51)年、東京12チャンネルは3月28日放送を持って「国際プロレスアワー」のレギュラー中継を打ち切り。その後も特番枠での放送を模索しますが6月25日放送を持って終了。

 

テレビ放映権料を完全に失った国際プロレスは8月9日、北海道羅臼の地で活動を停止。

東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日のテレビ東京への局名変更直前にも行われ、同年9月16日と9月23日に深夜帯でそれぞれ放送されました。

 

そして1981(昭和56)年9月30日、国際プロレスは正式に解散を発表。名実共に「崩壊」しました。

 

●その後のグレート草津

 

国際プロレスの崩壊後の草津氏は、他職業に転身。持ち前の営業力で頭角を現し、営業取締役に就任して活躍されていました。

 

最後にプロレスに関わったのは、テレビ東京のスタッフから要請された1990年10月のSWS旗揚げ戦での解説でした。

2008年6月21日、食道ガンから来る多臓器不全のため死去、享年66歳でした。

 

通夜の会場には「ラクビーボールとラクビー時代の写真はあっても、プロレスにまつわるものは一切なかった」と言われています。

コメント

  1. さねもく より:

    この頃まだプロレスはそんなに見ておらず、親父が夕飯時に見てまして、ラッシャー木村と力道山は似てるとか、その力道山もこっちは知らないよ、とかいってたような思い出です。
    国際を考えると、プロレスには団体を代表するスターが不可欠なんだなとおもいます。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。国際プロレスは「華のある日本人の看板がいなかった」ことがすべてですね。逆に言えばあの時代にその状況で、アイデアだけでよく健闘したともいえますよね。

  2. OZT より:

    いつも楽しく拝見させていただいております。
    国際プロレスで思い出すのは、当時大宮市(現在のさいたま市)にあった道場にタクシーが突っ込んでガス爆発を起こして全焼してしまったことです。
    当時通っていた中学校の学区内に道場があったので様子を見に行きましたが、まさに国際プロレス崩壊の序曲でした。今でも跡地前を通ると思い出します。
    大宮市内でプロレス興業といえば大宮スケートセンターでしたが、かなり前に分譲マンションになってしまいました。
    時代は流れますね。
    これからも楽しい記事をお待ちしております。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。国プロ道場爆発事件はこの団体の末期を象徴する事件ですね。幸い巡業中で選手が無事なのが救いでしたが。
      お近くに住まれているんですか!・・・いまはもう、跡形もないんでしょうね。

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