「ラッシャー木村」~1941-2010 7団体を渡り歩いた”金網の鬼”

※当サイトで掲載している画像や動画の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属します。

ID:9654

プロレス
{"source_sid":"0FD4EE9D-FC53-4526-96F3-7AD6DFD5FB19_1590394099968","subsource":"done_button","uid":"0FD4EE9D-FC53-4526-96F3-7AD6DFD5FB19_1590393613263","source":"other","origin":"free_style"}
スポンサーリンク

2010年にラッシャー木村さんが亡くなられてから、10年が経ちます。

 

39年間で実に7つもの団体を渡り歩いた、激動のレスラー人生。

 

「金網の鬼」の国際時代、「はぐれ国際軍団」の新日プロ時代、「マイク」と「ファミリー軍団」の全日時代…人によりラッシャー木村の印象はさまざまではないでしょうか。

 

今回は日プロ、東プロ、国際、新日、UWF、全日、そしてノアと数多くの団体を渡り歩いた木村さんのレスラー人生を振り返ります。

 


●大相撲時代

 

木村さんは1941年6月30日、北海道中川郡中川町出身。高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門し、木ノ村(きのむら)の四股名で幕下20枚目まで昇進します。

もともとプロレスラーに憧れ、相撲は基礎体力作りと考えていたそうで、「十両に上がったら辞められなくなる」と親方の慰留を振り切り脱走。そのまま廃業しました。

 

●日本プロレス〜東京プロレス時代 1964-1967

 

日本プロレスに入団したのは、1964(昭和39)年。

デビュー戦は翌1965(昭和40)年4月2日、リキ・スポーツパレスで行われた高崎山猿吉戦です。

 

その後、付き人をしていた豊登に誘われ、1966(昭和41)年、東京プロレスの旗揚げに参加。

1967(昭和42)年に東京プロレスが崩壊すると、吉原功氏に口説かれ国際プロレスに移籍します。

●「金網の鬼」国際プロレス時代 1967-1981

 

国際プロレスは新日本、全日本よりも早く1966(昭和41)年に吉原功さん、ヒロ マツダさんが興した団体。

 

旗揚げ以来グレート草津、サンダー杉山、ストロング小林、ビル ロビンソン、マイティ井上、そしてラッシャー木村らによる複数エース制を敷き、1968年から1974年にはTBSでTV中継もされていました(1974-1981年は東京12チャンネルに変更)。

 

旗揚げ以来、カールゴッチ 、ロシモフ(後のアンドレ )、ロビンソンをはじめとするヨーロッパ勢、AWAエリアを中心としたアメリカ勢など外国人の招聘力はあるもののアントニオ猪木の新日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレスに比べると絶対的日本人エース不在のため集客力が弱く、刺激的な「大流血・デスマッチ路線」で差別化を図っていました。

 

1969(昭和44)年、リングネームを 本名の木村政雄からラッシャー木村に改名。

 

4月にはサンダー杉山と組みTWWA世界タッグ王座を獲得。初戴冠を果たしますが、8月に王座を返上して渡米。海外武者修行を行います。

 

アメリカではカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、1970(昭和45)年2月には当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー ファンクJr.にも挑戦しました。

 

1970年8月に凱旋帰国。

10月、大阪府立体育館で日本初の金網デスマッチ(vsドクター デス)を行います。

 

金網デスマッチでは無類の強さを誇り、オックス ベーカー、ザ クエッション、カーティス イヤウケア、バロン シクルナ、バディ オースチン、オレイ アンダーソン、レネ グレイ、バロン フォン ラシク、レイ スティーブンス、マッドドッグ バション、カマタ、ジプシー ジョーなどに連戦連勝。第2戦のベイカー戦では試合中に足を複雑骨折。3戦はギプスを付けて強行出場する姿に、「金網の鬼」のキャッチコピーが定着します。

この時期の金網での対戦相手の中には、若き日のリック フレアーも含まれていました。1974(昭和59)年6月には米沢で、日本初の金網チェーン デスマッチも行っています。

 

木村さんはサンダー杉山さんやグレート草津さんとのコンビでTWWA世界タッグ王座を獲得。

1975(昭和50)年まで、テキサス アウトローズ(ダスティ ローデス&ディック マードック)、ミネソタ レッキング クルー(オレイ&ジ アンダーソン)、ハリウッド ブロンズ(ジェリー ブラウン&バディ ロバーツ)、ザ キウイズ(ニック カーター&スウィート ウィリアムス)、スーパースター ビリー グラハム&ラシク、ワフー マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスのタッグチームを相手に、防衛戦を繰り広げています。

 

1973(昭和48)年7月にはストロング小林が持つIWA世界ヘビー級王座に挑戦。当時としては珍しい、大物日本人同士による同門対決を行い、話題となりました(S小林の防衛)。

 

同年10月には「第5回IWAワールド・シリーズ」で初優勝。

 

1974(昭和49)年、ストロング小林がアントニオ猪木との対決を理由に国際プロレスを離脱すると、1975(昭和50)年、IWA世界ヘビー級王座を獲得。

 

小林が持つ25回を上回る26回の連続防衛に成功するなど、以後、国際プロレスが消滅する1981(昭和56)年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍しました。

▼79年10月、ラッシャー木村&グレート草津組vsルー テーズ&ニック ボックウィンクル戦

●他団体との交流、サンボ特訓

 

国際プロレスは“第三極”としての立ち位置から、他団体との交流も積極的でした。

 

1975(昭和50)年6月には木村さんがアントニオ猪木への挑戦を表明。これが無視されると今度は同年12月、ジャイアント馬場への挑戦を表明し、全日本プロレスと交流戦を行います。

 

1976(昭和51)年3月、蔵前国技館でのジャンボ鶴田戦(引き分け)は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞年間最高試合となりました。

ちなみにこの対戦の直前、2月に新宿のスポーツ会館で開かれた国際サンボ選手権に向けての日本選手合宿に木村さん以下、国際プロレスの所属レスラーが参加。サンボの第一人者であるビクトル古賀氏直々に、「ビクトル式回転膝十字固め」や「飛びつき腕十字」などのテクニックを伝授されています。

初代タイガーマスク、佐山聡氏が注目し、後に対ソ連用の秘密兵器として馳浩や飯塚孝之らが特訓したサンボですが、木村さんはそれに先駆けて習得していたことになります。

 

しかし、これらのテクニックを木村さんが実戦で使うことはほとんどありませんでした。

 

1979(昭和49)年8月26日「プロレス夢のオールスター戦」では、セミファイナルで因縁のストロング小林と対戦。疑惑のリングアウト勝ちを収め、物議を醸しました。

 

●「はぐれ国際軍団」新日本プロレス時代 1981-1984

 

1981(昭和56)年、国際プロレスの解散に伴いアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦。以降、「はぐれ国際軍団」としてアントニオ猪木との抗争を繰り広げます。

殴り込みの際(1981年9月23日、東京 田園コロシアム大会)、猪木を前にした第一声で観客に向かい「こんばんは」と礼儀正しく挨拶し失笑を買ってしまった事件は、伝説になっています。

当初は他のメンバーも参戦して新日プロvs国際プロの団体対抗戦となる計画でしたが、大の新日ギライで知られるマイティ井上さんを筆頭に、ほとんどが全日本プロレスへの移籍を選択。

 

リアルに「はぐれ」た3人は生き残りを賭け、人気絶頂、絶対的ヒーローのアントニオ猪木に「手段を選ばず、時に姑息な手も使うヒール軍団」としてのキャラクターを見事に演じ切りました。

持ち前のパワーと無類の打たれ強さでやられてもやられても前に出る木村さんは、古舘アナから「テトラポッドの美学」と形容されました。

 

●入場テーマ

「Rebirth of the beat」サンディ ネルソン
(国際プロレス末期〜新日本はぐれ国際軍団時代、全日ファミリー軍団時代)

 

1983(昭和58)年の第1回IWGPにディノブラボーの代役で参加。

 

1982と1983年にはアニマル浜口、寺西勇と共に猪木1人相手の“1対3 屈辱のハンディキャップ マッチ“を2度行うなど奮闘しますが徐々にストーリーラインから外れて行き、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散に。

 

木村さんはその後、ブッチャー、アレンらと共闘するなど外国人枠で生き残りを図りますが1983年9月に大阪府立体育会館で行われたアントニオ猪木との一騎打ちで血だるまにされ、壮絶なKO負け。

そして翌1984(昭和59)年、今度は新日プロ内紛、クーデター事件の余波で誕生したUWF旗揚げに参戦することになりました。

 

●第一次UWF時代 1984

 

1984(昭和59)年4月に旗揚げした(第一次)UWFにおいて木村さんは、元国際プロレスの剛竜馬と共に当時、若干24歳のエース前田日明を支える重鎮的存在でした。

しかし創立者であり木村さんを誘った新間寿氏が内紛で団体を離れることになり、わずか数ヶ月で離脱。

 

以降は全日本プロレスに活路を見出すことになりました。

 

●全日本プロレス時代 1984-1999

 

UWF離脱後、去就が注目されていた木村さんは、全日本プロレス「1984年世界最強タッグ決定リーグ戦」にジャイアント馬場の“ミステリアスパートナー“として参戦。

しかしシリーズ中盤戦で裏切りタッグは空中分解。以降、剛竜馬、鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。

この頃から試合後に馬場に対戦を迫るマイクパフォーマンスが、次第に注目を集めるようになりました。

 

その後、ジャパンプロレス勢の全日参戦で選手が溢れ、その余波で剛、菅原、高杉が全日本を解雇に。

 

そして1988(昭和63)年8月、武道館で馬場とのシングル戦に敗れた木村さんは試合後のマイクで「お前のことをアニキと呼ばせてくれ」とアピール。

このマイクがきっかけとなり、同年の世界最強タッグ決定リーグ戦に馬場との「義兄弟コンビ」で出場。馬場50歳、木村47歳のベテランチームながら3位の好成績を収めました。

 

翌1989(平成元)年からは馬場と共に「ファミリー軍団」を結成。「悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信)」らを相手にコメディタッチの前座試合を展開。

 

それまでの寡黙なイメージを覆し、タレントとしてもブレイクした木村さんは「三宅裕司のいかすバンド天国」(TBS)にレギュラー審査員として出演するなど、人気者になりました。

 

しかし1989年末の「世界最強タッグリーグ戦」での馬場木村vs天龍ハンセン 戦、

1990年春のチャンピオン・カーニバルでの天龍戦、1992年4月のファン感謝デー「4対4サバイバル タッグマッチ」での超世代軍(三沢光晴、川田利明、小橋健太)戦などでは時折、往年を彷彿とさせる奮闘をみせ、50歳を過ぎてもそのタフネス、頑丈ぶりは健在でした。

 

●プロレスリング ノア時代〜引退 2000-2010

 

1999年にジャイアント馬場が亡くなると、2000年からは三沢光晴が立ち上げたプロレスリング ノアに旗揚げメンバーとして参加。

 

現役最高齢レスラーとして選手生活を続けていましたが2003年3月、武道館大会を最後に体調不良を理由に長期欠場。

 

そして2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で、東京ドーム大会のビデオレターで引退を表明。以降、公の場から姿を消しました。

 

同年12月にはノア「終身名誉選手会長」となりますが脳梗塞で倒れ、車椅子生活を送っていたとのこと。また、かつての仲間達がお見舞いを希望しても頑に拒み、誰にも会おうとしなかったそうです。

 

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳でした。

 

2010年6月26日、ディファ有明で行われたノア主催の「お別れの会」には多くの関係者、ファンが詰めかけました。かつての盟友、アニマル浜口さんが「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲びました。

コメント

  1. 1958年生まれのおじさん より:

    確かに、全日でのマイクパホーマンスは、無理している感がアリアリでしたね。本来寡黙な方という事で、それもやはり「仕事」だったのでしょう。「こんばんは」事件の際、A猪木がアナウンサーにマイクを向けられても拒否したのは、彼一流の演出と同時に、R木村さんからはスイングする遣り取りは引き出せないと判断したからでしょうね。没後10年という事で、R木村さんを取り上げた貴殿の感性には感心しています。これからも色々な人物や出来事にスポットライトを当てていって下さい!
    テーズのコメントは、金をくれる方になびくので、確かに信憑性はないですね(笑)

  2. 1958年生まれのおじさん より:

    ご紹介頂いたエピソードや色々検索した情報からは、R木村さんの人柄が偲ばれる_と言うか、男の美学が感じられますね。J鶴田が大学院合格を最初に知らせたのが、R木村さんだったというのも、彼の人望でしょう。マスター(修士)をバーの主人と勘違いしていたのも微笑ましいですが。新日時代、A猪木との1対3の理不尽なカードを押し付けられ、「ガチでやったらオットウの方が強い」と息巻く2人を、「仕事だ」となだめたエピソードは、ハイジャックに巻き込まれたゴルゴ13が、ヒューム卿の依頼で犯人を一蹴した時の台詞そのままで、本当のプロだと感心させられます。ただ、自分も当時R木村さんのカッコ良さに気付かず、人間的に未熟だったなと反省させられますが…

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。当時はアントニオ猪木との対比で、頑丈だけが取り柄の鈍重なオッサン、というイメージでしたね。あの頃の世間のバッシングは、いまのSNSどころじゃなかったと思います。
      正直、全日でコメディ路線に舵を切ってからは「必死だなぁ」くらいにしか思わなかったのですが、あれだけの団体を渡り歩き、誰も悪く言う人がいない辺り、人柄が偲ばれます。
      ルー・テーズの「馬場、猪木、木村なら木村が一番強い」はテーズ一流のセールストークなのでまったく価値はないのですけどね(笑)。
      「サンボ修行をしてて関節もできた」説をつい最近、猪木氏がYoutubeで「相撲上がりで力はすごかったが、関節技は知らなかったんじゃないか」と一刀両断してて笑いました。

    • 望月 より:

      パイルドライバー ブルドッキングヘッドロック 重みがありました。凄いレスラーです。

タイトルとURLをコピーしました