①馬場と猪木
②時系列ドキュメント
に続き、今回は③関係者コメント集-「裏切り者は誰だ」編です。
*文中敬称略
まずは当事者であるこの人から。
ジャイアント馬場
猪木の反論会見当日に渡米した馬場は、アメリカでゴングの加山特派員にインタビューに答えています。(別冊ゴング 72年2月号)
* ところで猪木問題だが、猪木は記者会見で馬場は裏切り者だと言っているが?
「・・・私は猪木を裏切ったとは思わない。たしかに猪木の言うように、最初は一緒に会社を改革しようと手を握り盟約書、趣意書にもサインした。選手会もついてきてくれた。ところが盟約、趣意に反していったのは猪木の方ですよ。木村さんと言う第三者が介入してきて、猪木のやり方に疑問を持った。それははっきり、我々の趣意には会わないものと分かったので、私は一緒にやれないと言った。猪木の会社私有化の野心が、私以上に猪木と密着していた上田の証言ではっきりわかった。裏切ったのは猪木ですよ」
これは馬場が公式にクーデター事件について語った数少ない発言でありこの後、馬場はこの件に関しては一切口を閉ざします。
その後、自伝において「猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だった、これに関係していた上田を詰問したら上田が全部しゃべったんです」と記述。
ゴング誌 竹内宏介氏
「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。
三澤正和・元日本プロレス経理部長
「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言。(佐藤昭雄の証言では「上田、てめぇ、男と男の約束を破りやがって!」とある)
ついでに「東京プロレスからの猪木出戻りの際の日プロからの支度金は2000万円」とも供述。
芳の里・日本プロレス社長
「ある幹部をやめさせてくれという猪木からの要求を受け、徹夜の幹部会議の末、問題の幹部の退任は決まった。猪木は「だらけきっていた日本プロレスを改革しようと思っていただけ。われわれがリングで血と汗を流して稼いでいるのに、幹部が金を無駄遣いしていた」と言う。改革案には当初、馬場を含めて若手の多くが賛同していた。だが幹部会議のあと、帰途についた私の車を馬場が追ってきた。馬場は「今日までは猪木と協力していたが、今後は行動を共にしない」と宣言した。そして数日後、ある若手から手紙が届いた。猪木の乗っ取り画策の“事実”を書き連ねた告発文だったという。「猪木をとるか、若手全部をとるかで、猪木を除名するしかなかった」
ユセフ・トルコ
「札幌大会で選手会が猪木を襲撃する計画があり、猪木を本来の控室ではなくオレが用意した別室に匿って猪木は難を逃れた、本来の控室には選手がすでに待ち伏せていた」などと語り、さらに自著での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、アレを上層部に言ったのは間違いなく上田」
山本小鉄
「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」(小鉄は猪木派ではあるが、馬場の付け人のマシオ駒から可愛がられており、馬場とも決して関係は悪くなかったそうです)
桜田一男
「上田馬之助さんの付き人はいい人だし、荷物も少なくて楽だった。スパーリングは何回もやったことあるけど、メチャクチャ強いよ。猪木さんも強いです。猪木さんと上田さんは用事がないかぎり道場で来て練習してたから。馬場さんは来なかったけど」
グレート小鹿
「1970年に猪木さんがロサンゼルスに来たんで、2人でリトルトーキョーの日本料理屋で明け方まで飲んだんだ。そのとき猪木さんは日本プロレスの運営を変えなければいけない、ということを話していた。猪木さんの言い分はまともでしたよ。「金井克子と奈美悦子と由美かおるの3人娘がいる西野バレエ団が青山通りにビル二つ建てたんだ。これだけ男がいるのに何でビルの一つも建てられないのか」と何度も言っていたね。働いてない幹部が高給をもらっている、そういうことをなくせばみんなのためになるって。そのときは猪木さんに共鳴したよね。その年の9月に俺は帰国したんだ。俺も会社を改革しようという猪木さんの考えには賛成だったけど、乗っ取りと改革は違う。役員報酬を世間一般のレベルにするだけでいいのに、役員を全部クビにして新しい役員で、という話だったら賛成できませんよ。役員会が午前10時か11時ごろから始まったんだけど、その前に芳の里さんは2階の守衛室に俺を呼んで「猪木は謝ったからな」っていうんだよ。それで、芳の里さんが根回しがあったのか、役員会はなあなあで終わったんです。だけど、選手会のほうが猪木さんの除名を決めた。猪木さんは自分のブレーンである部外者を役員会につれてきたり、周りから見ていろいろおかしな行動をしていて、それに怒っている選手も多かった。それから1か月くらいして、猪木さんは新日本プロレスを立ち上げたんです」
「馬場さんと猪木さんは、その後意地の張り合いというか、どうしても一緒には行動できなかった。俺は猪木さん自身は悪い人間じゃないと思うけどね。バブルのころ、馬場さんと猪木さんが戦って勝った方に1億円出すという話をぶち上げた人がいたんだよ。そのころ俺は馬場さんの運転手をしていて、車の中で「馬場さん、やりましょうよ。何でやらないんですか」って言ったことがあるんだ。そしたら馬場さんは「俺は猪木と一緒に見られるのがいやなんだよ。おれとあいつは全然違うだろ」って言ってたね」
藤波辰巳
「付け人だった自分から見ても、猪木さんと馬場さんは、すごく仲が良かったんですよ。馬場さんは猪木さんを本名の“寛ちゃん”って呼んで、猪木さんも常に年上の馬場さんには一目置いて立てていた。巡業でも試合が終わると2人は一緒に旅館の風呂に入っていた。馬場さんの付け人の佐藤(昭雄)と自分は猪木さんの、佐藤は馬場さんの背中を流していたけど、風呂場で仲良く話をしていた。それがある時から2人が風呂に入る時間をズラすようになった。巡業でも貸し切りの旅館に泊まった時に、2つ風呂があると猪木さんが入っていると馬場さんは別の風呂に入るようになった。そのうち、自分も馬場さんの付け人の佐藤との関係もおかしくなって自分たちも話をしなくなってしまった」
坂口征二
「テレビ中継は2局が毎週放送。その放映権料は莫大だったはず。実際、私も会場で芳の里社長からファイトマネーを受け取る馬場さんや猪木さんの姿を何度か目撃していたが、冗談抜きで封筒がタテに立つほどのブ厚さだったことを覚えている。馬場さんも猪木さんも、日プロ幹部の浪費癖を指摘していた。事実、幹部の方々は事務所の金庫から、ガバッと札束をワシづかみにして銀座や六本木に直行していた。私や小鹿さん、高千穂、安達、永源らも、しばしば幹部の方々に同伴させていただいた」
「吉村さんとのアジアタッグが、私の国内初戴冠だった。メインのインターナショナル選手権で馬場さんがテリー・ファンクを下して7度目の防衛成功。控室では馬場さんが戻るのを待ち、芳の里社長の音頭で乾杯したが、何かいつもと雰囲気が違う。そこに猪木さんがいないからなのか?馬場さんの様子も何かおかしい。その答えは翌日(13日)に判明した。東京・代官山の事務所で午後3時から会見を行った芳の里社長、そして日本プロレス協会の平井義一会長、選手会長代理の大木金太郎さんが会見を行い「猪木除名」を発表したのだった。理由は何が何だか分からぬモノだった。頼みの綱である馬場さんは、この日の早朝から渡米してしまった。どうやら馬場さんと猪木さんの考えが一致せず、会社改革は失敗に終わった模様であるが、真相は分からない…。会見後、新体制を祝うという趣旨で、先輩選手の音頭で乾杯などをしつつ、笑顔で報道陣からの写真撮影にまで応じていたが、この時点になっても正直、この会社に何が起きて、こんな事件に至ったのか?私は把握していなかった。リング上では馬場さんや猪木さんに交じりメインイベントに出場。猪木さんの代役で至宝・アジアタッグ王座を巻きつつも、意識や社内での位置づけは入門4年目の「若手」に過ぎなかった。翌日、新聞報道で猪木さん側の言い分を目にして、さらに驚かされた」
◼️上田馬之助
この件に関しては長く沈黙を守ってきた上田ですが、78年、猪木との史上初のネイルデスマッチの試合翌日、週刊ファイトのインタビューで「俺は絶対あの件に関係していない。俺と猪木は大の親友だったんだぜ。そんな俺が卑怯な真似をするはずがないだろう。何かと世話になったのに・・・」と発言。
猪木が67年に日本プロに復帰した際、ジムで一人トレーニングに励む猪木に「良かったら僕たちと一緒にやりませんか?」と声をかけたのも自分だったという。
その後も「あの時、私は裏切り者にされた。一度、猪木に経緯を説明したい。いかに私が日本プロレス幹部からいじめられていたことを」と雑誌のインタビューで答えている。
また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場が大熊の訃報すら伝えなかったため「馬場は祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。
1998年、自身の引退興行の際にも「猪木さんにお詫びしたい」と語り、後に和解したと言われる。
2007年に東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」「証拠となるメモも残っている」と語っている。(但しそのメモが公開されることはついになかった。一説によれば猪木の暴走を先に暴露したのは自分ではなく馬場、というレベルのもの?とも)
「あんたらにね、猪木の強さはわからないよ。猪木の強さは一瞬の回復力。それが最近ちょっと落ちて来たような気がする」
ラストはこの人です。
アントニオ猪木
「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない。あるレスラーが幹部に『猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている』と密告したんだ。会社側は『猪木のクーデター』と宣伝し、馬場さんも含めてみんな会社側に寝返ってしまった。オレは、もう走りだしたものは戻れないから、突っ走るしかなかった」
「幹部はもちろん、選手会からも冷たい目で見られ、四面楚歌である。これでは試合どころではない。暴力団からの脅しもあり、身の危険を感じた私は、大阪で組まれたドリー・ファンク・ジュニアとのタイトルマッチを欠場した。前夜に尿管結石で入院したのである。半ば仮病だった」
「結局『会社乗っ取り犯人』ということで、私1人が悪者にされ、選手会からは除名。私は日本プロレスを永久追放されてしまったのだった」
「とにかく私は負けたのだ。言い訳しても仕方がない。しかし会社の改革を訴えたのは私だけではない。もしそれが罪になるなら、私とジャイアント馬場は同罪のはずだが、ここでも私と馬場の運命は分かれることになった。馬場は頭を下げ、選手会長を降りて日本プロレスに居残った。馬場はそれから密かに独立の準備をスタートさせる。策略家なのである」
「追放された事実よりも、仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」
「“一億円結婚式”という派手なものになってしまったのは、一つは会社の方針でもあったのだ。プロレスがちょっと人気下降気味であったときにわたしと倍賞美津子が婚約したのだから会社としては盛り上げの格好の宣伝材料だと思ったのだろう。「よし! できるだけ派手にやれ、費用は会社が負担する。これでプロレスのムードを盛り上げよう」ということになり、またホテル側も「これはホテルとしても大宣伝になるので、精一杯、協力するから、できるだけ派手にやりましょう」ということで、わたしもついついそれにのってしまった。よし! それなら世界一の結婚式をやろう…幼い頃からよく祖父に聞かされた「やる以上は何でも世界一」の精神を発揮して、張り込んでしまった。衣装も料理も最高級、そして引き出ものも、蝶の額と柿右衛門の皿で一組十万円はかかったろう。本当に一億円かかってしまったのだ。ところが、結婚式をあげてから、わたしは日本プロレスの内部改革の問題で、首脳部とおかしくなってしまった。そして、式後一ヵ月で日本プロレスを飛び出す破目になり、とうとう会社で持つという約束の結婚式の費用は払ってもらえず、大変な借金を背負いこんでしまい、わたしと倍賞の貯金をはたき、それだけでは足りずその後何ヵ月かで清算したが、「あんたは本当におっちょこちょいね。あれを払ってもらってから、喧嘩をすればよかったのに」とよく妻にいわれた。
しかし、あのときは「よーし、いいじゃない。あんた一人ぐらいあたしがたべさせてあげるよ。男は思い切りがかんじんよ。あたし達の力でやりましょう」とハッパをかけたのは妻の方であり、喧嘩ばやい、カッと燃えるという点では“似た者夫婦”であるかもしれない」
…アントンから思わぬ「倍賞ミッコ最強説」が飛び出したところで、次回④へ続きます!
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