ブルーザー&リソワスキーの「ブルクラコンビ」、ハンセン&ブロディの「ミラクルパワーコンビ」などなど、プロレスにおける名タッグチームは星の数ほどいますが、
今回ご紹介するアドニスとオートンの「マンハッタン・コンビ」は、活動期間たったの1シリーズ(3週間)だけの“即席タッグ“。しかしながら3週にわたって試合がTV中継されるや、プロレスにおけるタッグの戦い方を変えてしまう、インパクトを残しました。
いまではあたりまえとなった2人がかりの合体技、“ツープラトン“は、彼らが生み出し、“元祖“と言われているのです。
今回は、そんな昭和プロレスファンの記憶に残る、“幻のタッグチーム”を取り上げます。
“NYの暴走狼“アドリアン アドニス
“NYの暴走狼” アドリアン・アドニスは、「悪ガキ」レスラーの筆頭格。ふてぶてしい態度とルックスで、肥満系の体型にも関わらず人気者でした。
アドニスはG馬場、タイガー・ジェット・シンを育てた名伯楽フレッド・アトキンスの下でトレーニングを受け、1974(昭和49)年に本名の「キース・フランク」でレスリングデビュー。
1970年代後半に「エイドリアン・アドニス」と改名し、革ジャンスタイルのキャラクターとなりました。
ロディ・パイパーやロン・スターと組んでNWAパシフィック・ノースウェスト・タッグ王座などを獲得した後、AWAに移籍。
1979(昭和54)年にジェシー・ベンチュラとタッグチームを結成。アドニスがニューヨーク(東部)、ベンチュラがカリフォルニア(西部)出身であることから「イースト・ウェスト・コネクション」と呼ばれ、1980(昭和55)年7月には、AWA世界タッグ王座を獲得。
1981(昭和56)年からはWWFに転戦し、ベンチュラが怪我で欠場すると1983(昭和58)年、テキサス出身のディック・マードックと「ノース・サウス・コネクション」を結成。WWF世界タッグ王座を獲得します。
“カウボーイ“ ボブ・オートン
ボブ・オートンJr.はその名の通り二世レスラーで、次期NWA王者とも評された実力者。
初来日は全日本プロレスで、ジャンボ鶴田との対戦経験もあります。
オートンは大学を中退した後、ヒロ・マツダやジャック・ブリスコの下でトレーニングし、1972年、NWAフロリダでデビュー。
1975年にはディック・スレーターとのコンビでNWAジョージアタッグ王座を獲得。1976年にはテリー・ファンクのNWA世界王座に挑戦し、次期有力候補の一人となります。
1982年からはWWFに参戦。これを機にリングネームをカウボーイ・ボブ・オートンに改め、8月にはMSGでバックランドの世界王座にも挑戦しています。
このNY・WWFを主戦場とする両者が揃って新日本プロレスに来日したのが、1983(昭和53)年3月のビッグファイト シリーズでした。
“衝撃“のシリーズ開幕戦
1983年3月4日、シリーズ開幕戦、相模原市総合体育館大会のメインイベント。
アントニオ猪木&木村健吾組と対戦した試合で、アドニス&オートンの”マンハッタン・コンビ”は2人がかりの「ハイジャック・パイルドライバー」「スカイハイ・ラリアート(&バックドロップ)」の“ツープラトン”連携技を日本初公開。
この試合が生中継時間切れの関係で2週に渡ってTV中継されるや、全国のプロレスファンは、ド肝を抜かれました。
当時の新日本プロレスは、新日正規軍と維新軍、はぐれ国際軍の日本人「軍団抗争」真っ只中。ガイジンレスラーは脇役の“第4勢力”扱いでした。
アドニスとオートンも、押しも押されぬ“エース級”かといえばそうでもありません。また、2人はアメリカでは対戦相手であり、日本向けの「急造」タッグチーム。そのため猪木とのタッグマッチはいわば「開幕戦の顔見世的な試合」であり、特に注目もされていませんでした。
さらに、この1983年といえば2か月後の5月に「第1回 IWGP」という空前のビッグイベントを控えた時期。
そんな時にこんな「掘り出し物」が生まれるのが、プロレスの面白いところです。
異例の2週連続放送
ちなみにこの日、TV中継されたカードは以下の3試合。
坂口征二&藤波辰巳vs マサ斉藤&長州力
タイガーマスク&星野勘太郎vsミレ・ツルノ&アブドーラ・タンバ
アントニオ猪木&木村健吾vsアドリアン・アドニス&カウボーイ・ボブ・オートン
セミファイナルの2試合が押して、メインカードは試合途中で番組が終了してしまいました。
そのため、テレビ朝日は翌週の放送で、試合中盤から最後までを放送。
もちろんビッグマッチで2週に渡って放送、はたまにありましたが、シリーズ開幕戦の普通のタッグマッチでは、異例でした。
このことからもこのカードが予想外の名勝負となり、衝撃だったことが分かります。
”ツープラトン”日本初公開
アドニス&オートンは、クイックなタッチワークで序盤から日本組を翻弄。
オートンが木村をバックブリーカーに捉えると、アドニスがコーナーからエルボーをズドン!
そしてアドニスが木村をパイルドライバーの体制で抱え上げると、待ち構えたオートンが、セカンドロープからズドン!これが「ハイジャック・パイルドライバー」誕生の瞬間です。
さらには木村をバックドロップの体制に捉えたオートンに、トップロープからアドニスがラリアート、そのまま後ろにズドン!こちらは“マンハッタン・スペシャル”、後に「スカイハイ・ラリアート」と命名されました。
木村健吾は初めて喰らう強烈な立体ツー・プラトンにピンフォールを取られ、マンハッタン・コンビの圧勝。翌日の東スポには、デカデカとこのフィニッシュの“衝撃”が報じられました。
1中継2試合登場の快挙
この開幕戦の後半が放送された3月11日は、東村山からの生中継。TVではタイガーマスクvsクリス・アダムスの試合を挟み、アドニス&オートンvsラッシャー木村&アニマル浜口戦が放送されました。
ガイジン・コンビが1回の中継中に2試合も登場するのも異例です。
この試合でも2人は浜口に“マンハッタン・スペシャル”を炸裂させ、試合を決めにかかりましたが、セコンドの寺西が危機を察知して乱入し、結果は国際軍の反則負け。
またしてもマンハッタン・コンビの強さだけが、印象に残りました。
まさかの事態でコンビ解消
アドニス・オートン組は、その翌週3月18日の鹿児島からの生中継でも、メインで猪木・藤波組と戦います。
この試合では、アドニスが藤波をブレーンバスターの体制からコーナーのオートンにつなぎ、オートンがオクラホマ・スタンピードよろしく叩きつけるといったコンビネーションを見せますが、猪木がマンハッタン・スペシャルの炸裂前にオートンに延髄斬りを見舞ってフォール勝ち。
当然、翌週の放送でもこの2人のタッグが見られるとファンは期待しましたが・・・
なんとこの鹿児島大会の夜、オートンが地元のヤ●ザさんとトラブルを起こし、「ヒザの負傷」を理由に、緊急帰国。
その後、オートンは2年近く来日できなくなり、結局このマンハッタン・コンビの活躍は、わずか3週間、TV中継3試合のみで終了となってしまいました。
その後のオートン&アドニス
オートンはその後、1984(昭和59)年11月、東京都体育館で藤波辰巳の持つWWFインターナショナル ヘビー級タイトルに挑戦。馬に乗っての入場が、印象的です。
さらには、あの「海賊男」の正体も演じました。
2000年代には息子であるランディ・オートンがWWEスーパースターになり、マネージャーとして元気な姿を見せてくれました。
一方のアドニスは、マードックとのコンビで大活躍した後、
WWFのリングでオカマレスラーのギミックを演じ、ストレス性過食症で体重もさらに増加して無残な姿に…
1987年にWWFを離脱後、新日マットに復帰。元のスタイルに戻し再起を図っていた矢先、同年7月4日、遠征先のカナダでの移動中に自動車事故に遭い、享年34歳という若さで亡くなりました。
マンハッタン・コンビの残したもの
この2人の放ったツープラトン攻撃はその後、長州・浜口ら維新軍団やロードウォーリアーズなどに受け継がれ、世界中に広がって行きますが、
紛れもなく“ファースト・インパクト“は彼らでした。
たった1シリーズで、プロレスのタッグマッチを変えてしまった名コンビ。もっともっと日本マットでの活躍が観たかった、幻のタッグチームです。
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