“人間山脈“ “一人民族大移動“ アンドレ ザ ジャイアント~身長2メートル23センチ、体重236キロ。
実はアンドレよりサイズ的に大きなプロレスラーというのは何人もいるのですが、アンドレの「巨大イメージ」「怪物ぶり」は、他に類をみない、文字通り別格の“巨人”でした。
身長2メートルのホーガン、190センチ台の猪木、前田、ハンセンですら、アンドレの前では小さく見える。
大きいだけのほかの巨人レスラーとは違い、いざとなるとしっかりとしたレスリングもできる、世界のスーパースターでした。
今回は1993年に46歳の若さで亡くなったアンドレの、世界と日本マットでの活躍、そして数々の大巨人エピソードをご紹介します!
18歳でプロレスデビュー
アンドレは1946(昭和21)年5月19日 フランス出身。
1964(昭和34)年、18歳でパリでプロレスデビュー。
昭和プロレス少年のバイブル、梶原一騎先生原作の「プロレス スーパースター列伝」(週刊少年サンデー連載)では、「アンドレはデビュー前はきこり」と紹介されていましたが…
それはフィクションで、ホントは家具屋で働いていたのだそうです(ちょっとだけ似てます!笑)
ついでに言うと、古舘アナの「アンドレは家族の中で一番チビ」というのも氏特有のユーモアです(笑)。
国際プロレスに初来日!
初来日は1970年1月、国際プロレス。当時のリングネームはモンスター ロシモフでした。
この時にAWAの帝王バーン ガニアに気に入られ、カナダを拠点に、映画 「キング コング」をモチーフにした「世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)」のキャッチフレーズで売り出されます。
1971年の再来日ではカール ゴッチ、ビル ロビンソンなどの超強豪メンツをおさえて第3回IWAワールド シリーズで優勝を果たします。
WWWF & 新日本プロレスへ!
1973年にアンドレ ザ ジャイアントに改名。WWWF(現:WWE)のプロモーター ビンス マクマホン(シニア)と契約。
それに伴い、新日本プロレスへ戦場を移し、アントニオ猪木との抗争がスタートします。
1976年には猪木の「格闘技世界一決定戦」にプロレスラーとして唯一のエントリー。さらにはブラジル サンパウロでのビッグマッチでも、猪木と対戦しています。
アメリカでのアンドレ
アンドレのアメリカでの活動は、「特例扱い」でした。
WWWFのマクマホン シニアはアンドレを古巣AWAやNWAなど世界中にブッキング、短期参戦で世界中を股にかけ、当時のNWA、AWA、WWWFの世界王者を始め各地のスターレスラーと対戦。大人気を博します。
これは”一箇所に固定すると観客が飽きる”という過去の巨人レスラー達の売り出し方からの反省を活かした措置と言われています。
アンドレは各地域をサーキットして、ビッグイベント用の「秘密兵器」、「特別参加の大物」として、全米だけでなく世界のプロレス マーケットを席巻しました。
新日本プロレスでは日本人ギライの怪物、ヒール(悪玉)扱いでしたが、日本以外のマーケットではアンドレはベビーフェイス(善玉)の大スター。
1974年 ギネスブックで「年俸世界一(40万ドル:当時のレートで1.2億円)のプロレスラー」の認定を受ける程の、超売れっ子でした。
1981年5月、そのアンドレの足を折った(実際はヒビだったそうですが)というアクシデントからスタートしたキラーカーン(小沢正志)との抗争は、東海岸のドル箱カードになりました。
熱狂の新日本プロレス時代
新日本プロレスでは、なんといってもスタン ハンセンとの“バトル オブ スーパー ヘビー ウェイト”、田園コロシアムでの一騎打ち。プロレス史に残る名勝負と言われています(1981年9月23日)。
1981年12月にはレネ グレイとのコンビで第2回MSGタッグ リーグ戦優勝 。
1982年4月には第5回MSGシリーズ優勝。決勝は猪木が負傷欠場したためアンドレとカーンの一戦でした。
IWGP決勝リーグでは1983年の第1回、1984年の第2回と連続でアントニオ猪木vsアンドレ ザ ジャイアントが福岡スポーツセンターでの開幕カード。私も2年連続で生観戦しました。
生で見るアンドレのデカさ、というのは「大きな人」のレベルではなく、恐竜とかマンモスとか、そんな迫力でした。
実況の古舘伊知郎アナの「人間山脈」「一人民族大移動」「人間エグゾセ ミサイル」などのキャッチフレーズと共に、新日本プロレス ビッグマッチの常連でした。
WWF全米侵攻作戦
1984年、ビンス マクマホン(jr.)によるWWF全米侵攻作戦では、アンドレはハルク ホーガンと共に、その人気を牽引。
全米侵攻によりWWFと新日本プロレスが提携を解消した後もアンドレは特例扱いで出場し続け、1985年には将軍KYワカマツをマネージャーに従え、なんと覆面を被りジャイアント マシーン(Giant Machine)に変身。
このジャイアントマシーン ギミックは本人もお気に入りで、アメリカWWFマットでもそのままの姿で試合しています。
1986年4月29日には当時UWFの前田日明と不穏試合。これは誰がけしかけたのか、自発的な行動だったのかは今もって数多くの説があり、真相は謎です。
そして同年6月の愛知県体育館での「IWGPチャンピオンシリーズ」公式戦で、アントニオ猪木に腕固めで「世界初のギブアップ負け」をプレゼントして、新日本マットを去りました。
1987年、盟友ハルク ホーガンを裏切りヒール ターン(悪役へ転向)。
この年にシルバードームで行われた「レッスルマニアIII」での一騎打ちは、9万3132人の当時の「屋内スポーツ動員記録」を打ち立て、ホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカン プロレス史上、屈指の名シーンとなりました。
80年代中盤頃から急増した体重による膝、腰の激痛に悩まされ始め、1990年、体調不良のため、WWFを退団しました。
全日本プロレスで馬場との大巨人タッグ結成
その直前の1990年4月13日に東京ドーム「日米レスリングサミット」に登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。
その後、アンドレが最後の主戦場に選んだのは、全日本プロレスでした。
同年9月後楽園ホールでの「ジャイアント馬場デビュー30周年記念試合」では馬場&ブッチャー vs アンドレ&ハンセンという夢のカードが実現。タッグながら、ジャイアント馬場との初対決となりました。
そして1990年、1991年と「世界最強タッグ決定リーグ戦」に馬場との「大巨人コンビ」で出場し、1991年には準優勝。
1990年横浜アリーナで行われた「アントニオ猪木30周年メモリアル」にハンセンと共に参加。笑顔で握手を交わしました。
1992年からさらに体調が悪化し、馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との試合に参加するようになります。
10月21日日本武道館で行われた「全日本プロレス創立20周年記念試合」では馬場&ハンセン&ドリーvs鶴田&アンドレ&ゴディ戦が実現。これがアンドレvsハンセンの最後の対決となりました。
この時期のアンドレは、新日参戦時とはうって変わってにこやかにファンの歓声に応え、ベビーフェイスとしてプロレスの余生を楽しんでいるかのようでした。
そして1993年1月27日。
父親の葬儀へ出席するため帰国していたフランス パリのホテルで急性心不全により逝去。46歳でした。
世界で5人目!
「アンドレをボディスラムで投げる」というのは、アンドレに認められたレスラーだけの特権。
日本人ではアントニオ猪木、長州力、ストロング小林の3人のみです。
こちらに、映像がまとめられています!
①ストロング小林
②ブッチャー バション
③ハルク ホーガン
④スタン ハンセン
⑤カネック
⑥キマラ
⑦アントニオ猪木
⑧長州力
⑨ビッグ ジョン スタッド&ケン パテラ
⑩アルティメット ウォリアー
また、アンドレになる前の1971年、国際プロレスでカール ゴッチがジャーマン スープレックスで投げ切っており、これが唯一と言われます。
アンドレの酒豪伝説
・6時間で119本の大ビールを飲んだ
・酔うにはウォッカのボトルが2本必要だった
・札幌ビール園で生ビールを大ジョッキで89杯とジンギスカン焼肉11人前をぺロリと平らげた
・ハルク ホーガン「アンドレの誕生日に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」
・ブラジル遠征でロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機内にあったビール2〜300本を一人で全部飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついた
古舘アナの語るアンドレ
「おれはアンドレに嫌われて、いまだにアンドレの夢を見るよ。当時、外人ではハンセンとアンドレが新日本で看板だったんだよ。おれはハンセンと仲よくなり過ぎちゃったんだよ。飛行機なんかでも大変。高松の空港から乗って東京に帰るってときに一緒になって、別に席が一緒じゃなきゃ関係ないやと思ってたらもらったチケットがアンドレと通路を隔てた席なんだよ。アンドレは一番前の席を2席とるの。でもいいや、関係ないやって知らんふりして。気がついてないだろう、通路もあるし、とか思った瞬間に、ふっと顔を見たら「ゲラウエイ!」って。ぶわあってこう、山みたいな顔で「ゲラウエエエエエイッ!」って。オレなんか顔面蒼白だったと思うけど、おれは動かない。「マイシート」とか、わけわかんないこと言ってね「マイナンバー」とか、そんなことしか言えないんだよ、もうびびっちゃって。「ゲラウエエエエエイッ!」って、ものすごいんだよ。こうやって襟首をこうつかんで、本当に。それでもおれは意地になってこうやってやってたら、後ろのほうに座っている外人レスラーと話をつけて、自分が後ろに行っちゃった」
「アンドレは、おじいちゃんもお父さんもお母さんもみんなアンドレよりデカかった。9人家族で、一番チビだった。だから自分は小さい小さいと思ってたのに、何かの関係でパリに出ていって、モンマルトルの丘でサクレ クール寺院を見おろすところで見世物小屋みたいなプロレスが催されて「オマエはデカいんだから出ろ」ってプロモーターに言われてリング上がったら、ウォーって歓声が上がって、「えっ?オレはやっぱり、本当にデカいのか?」って。それまでは家族で一番のチビだから戸惑ってふと横を見たら、エッフェル塔と同じ大きさだった」
プロレス界屈指のスケールで、全世界で大暴れした、偉大なる大巨人 アンドレ ザ ジャイアント。
その生涯はリング上の華やかさとは裏腹に、常に自身の巨体すぎるサイズに悩み、迫り来る病魔「先端巨大症」との孤独な戦いであったといいます。
完
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コメント
映像には残ってないと思いますが1982年ころ長野県の飯田市の興行において確かタッグマッチだと思いますが猪木がアンドレをボディスラムで投げています
当時会場で観戦していて「こんな片田舎でアンドレ投げるなんてマジか!?」と大興奮した記憶があります。ほかのことはもう殆ど記憶に残っていませんがこれだけは鮮烈に覚えているので確かだと思います
※検索した結果1982年7月7日飯田市勤労者体育センターにて6人タッグマッチで A.猪木、ハルクホーガン、谷津嘉章VSアンドレザジャイアント、エルカネック、スコットマギー戦での出来事のようです。
貴重な目撃証言、ありがとうございます!
ノーTV、でしょうか?
まさに生観戦の醍醐味、ですね。
あ〜すみません! これ、プロレススーパースター列伝のブロディ回のことなんですが、幻のピンフォールです! ボディスラムは、勘違いです!が、これまた、そもそもが、梶原ファンタジーっぽいです。マス大山のエドサリバンショーといい、梶原先生はまさかネットで調べられる時代が来るなんて思ってなかったのかも! あ、話が逸れました。
ズンとねるさん、幻のピンフォールの方でしたか(笑)。ブロディとアンドレ、78~81年ごろにNWAの総本山キールオーデトリアムでの対戦やタッグ結成してるようですね。(なんと対戦相手はフレアー&マードック組とか!)それからオーストラリア戦も当時のプロレス誌で見た、という方がいらっしゃるそうですが真意のほどは定かではありません。。。ブロディのニードロップであわや!というシーンはあったようですが。。。
オーストラリアで、ブロディにも、ボディスラムされたってのは、列伝の読みすぎですかね?
ズンとねるさん、ありがとうございます!今回かなり調べてみたのですが、vsブロディのオーストラリア戦でのボディスラム、は記録としては残っていないようでした。ブロディのサイズとポジションとしてはあり得る話なのですが・・・
アンドレが国際に来たシリーズと言うと、真っ先に
第3回IWAワールドシリーズを挙げる人は多いと思いますが
実は3回大会ではアンドレ、脇役であり、注目の的は
ゴッチvsロビンソンだったんですよね。そう言う意味では
4回大会の方が注目度は高かったかも知れません。
又、ロシモフからアンドレと名前を変え、新日本に
参加する様になってからも、2回も(昭和49年と
55年だったかな?確かダイナマイト・キッドも
来てた筈)国際に参加してるんですよね。
多分これ、ストロング小林の脱退、人気の面で
新日、全日に差を付けられていた国際を助ける為に
参加したと思うのですが、こう言う部分を見ると
アンドレの日本人嫌いがアングルで有り、実は
義理人情に厚い(自分を日本に呼んで呉れた
故・吉原社長に対する恩返し)男だと言う事が
良く分かりますね!