アントニオ猪木vsビル・ロビンソン 1975~ベスト・オブ・ベストバウト①

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猪木vsロビンソン プロレス

”燃える闘魂”アントニオ猪木の名勝負シリーズ。

vs ストロング小林戦
vs 大木金太郎戦

に続いては、1975年12月11日のvsビル・ロビンソン戦です。

 

 

 

私はこのロビンソン戦が、「プロレスラー・アントニオ猪木の、生涯を通じてのベストバウト」だと思っています。と、いうより、「20世紀、21世紀を通じたプロレスにおけるベストバウト」だと言っても過言ではない、というくらいの試合です。

 

何度も言いますが「ブロディ戦を猪木の名勝負」と思っている人、そして「猪木ってどこが凄いの?」って人、そして「プロレスって八百長でしょ?」という人こそ、この試合をぜひ、観てみて欲しいと思います。

 

この試合をフルタイム、つぶさに観察すれば、この頃、猪木が標榜していた「ストロングスタイル」「キング・オブ・スポーツ」とはどういう意味なのか、がわかります。

 

 

アントニオ猪木の「全盛期」とは?

 

実は前のコラム「アントニオ猪木vsストロング小林戦」「アントニオ猪木vs大木金太郎戦」は実は、このロビンソン戦をご紹介するための長すぎる「前フリ」でした(笑)。

 

そこから説明しないと、この試合への流れが説明できないのです。

 

まず大前提として、プロレスラー アントニオ猪木の肉体的なピークは、1975年のこの試合(32歳)から1976年のアリ戦(33歳)頃まで、と言えます。「アスリートしての全盛期は?」、という問いであれば、ギリギリ、1979年(36歳)頃まで、でしょうか。

 

そして、前述の「大物日本人対決」ストロング小林戦、大木金太郎戦共に、「アントニオ猪木が試合をコントロールし、相手のよいところを引き出した上で勝った名勝負」ですが、このロビンソン戦はそれらとは異なります。

 

この試合で猪木は、終始、ロビンソンに試合をコントロールされ、先手先手を打たれ、あわやホームグラウンドの大観衆の前で大恥をかかされるくらいのリスキーな戦いを強いられました。

 

なにせロビンソンはプロモーターであり社長である(平たく言えばギャラを払ってくれる)猪木に、華を持たせるどころか、いいところを出させる気はさらさらなく(事前の約束はさておき)、勝ち逃げする気満々のような展開を仕掛けてきました。

 

しかし、別に不穏試合とかアクシデントではありません。正々堂々、技と技のぶつかり合いが、丸々1時間続くのです。

 

「予定調和」ではない試合だからこそ余計に、アントニオ猪木の本当の強さ、凄さがよくわかる試合なのです。

 

 

時代背景から見た「猪木vsロビンソン戦」の意義

 

時代背景を含め、「日本統一」を掲げる当時のアントニオ猪木視点でいえば、

 

国際プロレスのエース小林、日本プロレスのエース大木を撃破し、次に選んだのが国際プロレスの元エースかつ、当代きっての人気実力ナンバーワン ガイジンであるロビンソン

 

という、「日本統一に向けた一戦」という事になります。

 

そしてもう一つは、「当代きっての実力者同士のNo.1決定戦」でもありました。

 

日の出の勢いのアントニオ猪木は、小林、大木を破ったことで「実力日本一」に王手をかけていました。「なんだかんだで実現しないジャイアント馬場と戦っても、今なら猪木の方が強いのではないか?」という見方が強まっていた時期です。

 

一方のビル・ロビンソンは、日本では国際プロレスが主戦場で、猪木との対戦経験はありません。なので、この猪木とロビンソン戦は長年「夢の対決」として、熱望された顔合わせでした。

 

 

 

小林戦、大木戦は「試合に至る両者の立ち位置込みの名勝負」でして、正直、「テクニックの攻防」という点でロビンソン戦には劣ります。

 

そして、いまの「派手・スピード感・アクロバティックなプロレス」を見慣れてる人には物足りないかもしれませんが、このロビンソン戦に関しては、「試合(技術)だけをみても、最高の名勝負」。

 

当時5歳の私は残念ながらリアルタイムではなく、後からビデオでこの試合を観ただけの世代ですが、中学生になりはじめてこの試合を観た時に「現在は絶滅したプロフェッショナル・レスリングというのはこういう事を言うのか」と衝撃を受けました。

 

ちょうどその頃「UWFムーブメント」の最中でしたが、何のことはない、それより十年以上前に、猪木とロビンソンはそれよりもっと高度な、技術の攻防をみせていたことに衝撃を覚えました。

 

 

“人間風車”ビル・ロビンソンとは何者?

 

 

ビル・ロビンソン(Bill Robinson、本名:William A. Robinson)は、英国マンチェスター出身。ウィガンでスネークピット(蛇の穴)と呼ばれた名門ジム「ビリー・ライレージム」で、英国伝統のキャッチ・アズ・キャッチキャン・スタイル(フォール決着あり、関節技も使用可能なレスリング)を学び、19歳でプロレスデビュー。世界各国をサーキットして一流レスラーとなります。

 

猪木の師であるカール・ゴッチとは同門で兄弟弟子、といった関係でした。

 

初来日は1968年4月。英国レスリング界とつながりのあった日本レスリングの父・八田一朗氏(日本レスリング協会会長)と、国際プロレス 吉原功社長が早稲田大学レスリング部の先輩と後輩であった縁で、旗揚げ間もない国際プロレスに参加しました。

 

人間風車(ダブルアーム・スープレックス)を日本初公開。そのままニックネームとなりました。

 

 

ロビンソンは、初来日した1968(昭和43)年11月に開催された「ワールド・チャンピオン・シリーズ」(第1回IWAワールド・シリーズ)で優勝。IWA世界ヘビー級王座の初代チャンピオンとなります。

 

当時の国際プロレスはまだストロング小林、ラッシャー木村ら日本人選手が育っておらず、ロビンソンはIWA世界ヘビー級王者に君臨して、若手選手の育成も行いつつ、翌年まで「日本プロレス史上初の外国人エース」として活躍。

 

その後もカール・ゴッチ、モンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)、AWA王者のバーン・ガニアらと伯仲の名勝負を繰り広げます。

 

この時代、まだ「外国人レスラー=悪役」のイメージが強い中で、毎週水曜夜7時、ゴールデンタイム放送されるTBS・国際プロレスの中継により、反則なしの正統派、そして日本組サイドで活躍するロビンソンは、大人気となりました。

 

さらにはロビンソンは、欧州、米国、日本だけでなく中東やアジア諸国でさまざまなスタイルを経験した「レスリングマスター」でもあり、アメリカではAWAエリアで若き日のリック・フレアー、アイアン・シーク、ケン・パテラ、サージャント・スローターらを指導しています。

 

「試合だけをみても最高の名勝負」と言いましたが…ところがこの試合もまた、小林戦、大木戦以上に、もっとドロドロとした、ドス黒い舞台裏が存在するのです…おそるべし昭和プロレス。

 

次回はこの試合の舞台裏、「②ジャイアント馬場の逆襲・仁義なき暗闘」をお送りします。

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