追悼「筒美京平」~No.1 HIT MAKER

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音楽
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稀代の名作曲家、筒美京平さんがお亡くなりになりました。

 

あまりにも偉大すぎ、代表曲は〜なんて紹介が、これほど不釣り合いな方もいないでしょう。
日本の歌謡曲は、この方なしでは語れません。当ブログでも紹介していて当たり前、なのですがあまりに足跡が巨大すぎて、とうとう書けずじまいでした。。。

 

我々世代は、生まれた時から世の中に“筒美京平サウンド“が存在することを、水道や電気のインフラと同じくらい、あたりまえに育ちました。

 

それだけに「サザエさんの主題歌を作った作曲家が亡くなりました」なんて報じられ方を目にすると猛烈な違和感と共に、「でもまぁ偉大すぎて、そうでも言わないと紹介できないか」という妙な納得感がありました。

 

オリコンランキングNo.1が計39曲、レコード(CD)の総売上枚数7,560万枚は、星の数ほど存在する日本の作曲家で圧倒的No.1。

 

1971年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1983年、1985年、1987年の計10回、日本の作曲家別レコード売り上げ年間1位。

 

1960、1970、1980、1990、2000年代の5つのディケイドでチャート1位を獲得。

 

コンビを組んだ作詞家も数知れず、世代によって阿久悠さん、松本隆さんなどが印象的だと思いますが、協働楽曲数で1位は、学生時代からの盟友、初期のゴールデンコンビである橋本淳さんだそうです。

 

橋本さんとのタッグで制作した楽曲は、シングルやアルバム曲などトータルで550曲以上。

 

第2位は1980年代以降の松本隆さんで約380曲。

 

第3位が1970年代後半から80年代前半の阿久悠さんで約120曲。

 

以下、有馬三恵子さん、売野雅勇さん、秋元康さんが100曲で同率4位。

 

さらに、なかにし礼さん90曲、阿木燿子 さん80曲…と続きます。

 

作曲家デビューは1966年。以降、歌謡曲、アイドル歌謡曲、J-POP、アニメ主題歌などで数えきれないヒット曲、名曲を世に送り出し、一線で活躍され続けていました。

 

2006年『THE HIT MAKER -筒美京平の世界-』2007年『the popular music 〜筒美京平トリビュート〜』、2013年『筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967-1997 2013Edition』など、数々の作品集が発売されています。

 

“筒美京平サウンド“は、洋楽のエッセンスを絶妙に取り入れた楽曲制作、それも編曲まで考慮に入れた作品作りが特長でした。

 

決して「安易なパクリ」ではなく、背景や聴き手のリテラシ、時代の空気と、思想を反映した上で、元ネタを深く解釈、昇華した“筒美京平サウンド“を創造。

 

洋楽そのまんま、では商業的に成功できない時代に、筒美京平さんが日本的メロディとの融合によるクオリティの高い楽曲を市場に大量に投下してくれたことが、日本のミュージックシーンの成熟につながったと言えると思います。

 

フォーク、ニューミュージック、ロックなどその時代時代でミュージックシーンが変遷し、かつての「シンガーソングライター」から、いまでは「アーティスト」と呼ばれる自作自演ミュージシャン達が現れると、「職業作曲家」の活躍範囲は徐々に失われていきました。

 

彼らが創る「作品」と、筒美京平さんら職業作曲家が創る「商品」は、ガチンコで戦う総合格闘技と、エンターテイメントとして観客を熱狂させるプロレスにも似ています。

 

どちらが良い、悪いというつもりはないですが、「ヒットを義務付けられる」職業作曲家の厳しさ、覚悟を軽んじるのは、私は違うと思うのですよね。

 

世の中には真剣勝負以外にも真剣な勝負があり、そのための探究と技術は、凄まじいものがあると思うのです。

 

謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

 

筒美京平コレクション
1  1960年代~1970年代 2  1970年代 3  1970年代 4  1970年代~1980年代 5  1980年代 6  1980年代 7  1980年代~1990年代 8  1990年代 9  1990年代~2000年代 10...

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    拝啓 サイトヘッド様には、急激に深まる秋とは言い難い初冬?の雰囲気の中よろしくお願いいたします。

    *「筒美京平と言う人について 主観的な考察」
     サイトヘッド様は筒美京平と言う人を大変高く買っておられますが、実は自分は残念ながらそうとは思い難いのです。この筒美京平さんを初めて知ったのは、まだサイトヘッド様誕生の遥か以前1967年頃? アニメ怪物君の主題歌からでした。やはり本格的に興味関心が出てきたのは1970年代初期の中学生時代=空前の歌謡曲ブームの頃からでした。この当時一般的な俗称歌謡曲=和製ポップス&演歌の作曲家たちは「森田公一、平尾昌晃、浜啓介、中村泰治、都倉俊一」と言った今日ほとんど聞かれない方々ばかりでしたが、確かに筒美京平さんはその中でもヒット曲は多かった、、、しかし不思議な事に「天地真理、山口百恵、小柳ルミ子、松田聖子」等の大スター歌手たちへの曲提供は終ぞ無かった、、、、これは同じく「阿久悠」等もそうでしたね。此処がまず解らなかった、、、聞けば「作曲が集中し順番待ちが長くて待てなかった」云々言うが、、、本当にその作曲家に書いて欲しければどんな手段使おうが出来たはずですよね? 幾らでも言い訳は取り繕えます。
    *「筒美京平とは?=芸術家と言うよりもなんでもソツ無くこなす器用な職人だった」
     実は、クラシック界の指揮者でもこういう人がおり、一般的には「カラヤン、オーマンディ」等があげられますが、確かに演奏は素晴らしいが深さには欠ける上にドマニアには評価が少々低い、、、と。筒美京平さんを以前からリサーチしてみますと「元々幼少からのピアノレッスン=クラシックの基礎からジャズに移行し、バンド活動の中から人間関係構築後に様々な人との出会いと影響、更に音楽関係の仕事に就いてからの強力な周囲の影響力、更には名前の出てくる「すぎやまこういちに弟子入り」と言われるが、此処しばらくのマスゴミ報道では全然その名も出ない=おそらくはすぎやまも専門的音楽教育を受けたわけでは無く大半は独自の独学であり「証拠保全として、巨匠宮川泰先生には随分助けられた」事が確認されている、、こうした事から推測されるのは「古賀政男に弟子入りした者達同様に、作曲編曲など教えられない代わりに別の事=作編曲以外の某を学んだ」と言えるのでしょう。此処がどうも「同じほぼ独学の(実はツェレプニンからかなりの指導を受けた)伊福部昭先生とは根本的に違う部分です(伊福部先生は物凄い数の弟子を育てた) 以前より筒美さんと言う人は「大変な洋楽好きで=こういった処は例の大瀧詠一師匠に酷似している 大量の洋楽のアナログレコードを片っ端から流し聴き=曲の頭に針を落としてすぐに次の曲を、、、、」と。つまり筒美さんの曲作り(あえて創るとは書かないし書き難い) とは? 「大量の洋楽からインスパイアされた本家のエッセンスを、トランスクリプション(置き換える)し新たに和製ポップスに作り変えた(代えた)音楽=借用Jpopと言えます(菊池俊輔さん等と同じく、聴くべき人が聴けばすぐに筒美京平作と解ってしまうのも不思議) ある意味人は(他人)はこれを「パクる」等と言いますが、実は過去「大作曲家のモーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブラームス」等も、昔からある曲を使って曲を創ったり、あるいはブラームスの様に裁判沙汰にまで発展し「編曲」にしてようやく勝訴できた事例すら在ります。 実は過去「シンセを使った教育で高名な鈴木教授」はいみじくも「人間は聴いた事の無い音は造れない」と。コロンブスはわざわざゆで卵をおっ立てて「こうすれば立つが、なんでも最初にやる事は難しい」と言ったとか何とか、、、、大瀧詠一師匠もいみじくも「何事も、真似が全ての資本主義=小林渋茶」なんてぇ言っておられましたが、メロディー有限説も含め「完全完璧なオリジナルなんてぇ13音の順列確立の中ではどうあがいても類聚は免れない」としたら、、、例えば筒美京平と言う人の様な「インスパイア トランスクリプションも一つの方法論としては在り」なのかも知れません。しかもこの人は職人です。
    職人とは、どんな状態であっても必ず期日までに既定の仕事をしなくてはならない。此処がまぁ芸術家とは違う点でして、ご本人も自身を芸術家とは一切言っていませんし解っていたのでしょう。
    *「最大の弱点=なんでも一人で完結したがる傾向/アレンジの出来不出来優劣が在り過ぎた」
     此処が本当に残念です。こういった職人気質の人は何でも一貫してやりたがる傾向があり都倉俊一さん等もそうでしたが、やはりアレンジは初手から専門にまかせるべきでした。
    確かに「中原理恵=東京ララバイ 恋の十字路 わたしの彼は左利き 早春の港」等は文句のつけようの無いアレンジですが、、、「17歳 赤い風船 リップスティック」等は同じ人の作業とは思えぬ程出来が悪い、、、つまりアレンジに関しては「好不調の波があまりに大きくレベルが違い過ぎる」具体的には「ブラスの音の重ね方や弦の動き、リズムパターンの単調さ」等があげられ、同じ人なのか?と思う程なのです。こうした事は職人としては失格であり、その後別の専門家に任せる事は間違いない英断で、もっと早くアウトソーシングしていればもっとヒットしたかもしれない、、、、また筒美さんは芸術家と自ら言わぬ事を知る事として「音楽は生活の一部」と考えていた様です。クラシック界の巨匠でも「トスカニーニ、フルトヴェングラー、クレンペラー等は唯ひたすら音楽音楽音楽漬」でしたが「カラヤン、クナッパーツブッシュ等は音楽は生活の極一部」だったと。実は「巨匠渡辺兵夫先生は仕事もご趣味も作曲であり、小林亜星さん等もいみじくも、趣味道楽が仕事になっちゃってるから後の楽しみは食う事と呑む事だけ」と。こういう音楽しか頭に無かった方々も多いのですが、
    筒美さんはそうでは全く無かった様で、まぁこれらの事実は「方法論でしか無く、どっちが良いとか悪いとかそんな低脳な低次元の論理では無い」のですがひとつの事実です。
    *「早くからレコーディング関連に関心を示し、HGオーディオを所有していた事実」
     生前ほとんどマスゴミに登場しなかった筒美さんですが、実は「レコーディング関連の冊子」等には極稀に登場され、意外な事を語っていました。それは「レコーディングには必ず参画立ち合い、エンジニアと綿密に打ち合わせ現場での改変もいとわなかった」と。具体的には「また会う日まで =当時出始めの16TMTRを用い、カラオケとコーラスとヴォーカルを16t目一杯録音し更に別2tにトラダンし更に16tに重ねて音を足していった。当然最初の音よりどんどん悪くなり大変だった」と。これは当時のエンジニアとの対談で知りましたが、こうしたレコーディングにも強い興味関心を持ち、現場での急な変更や改変にも臨機応変に対応したのはさすがに職人で、芸術家なら直さなかったかもしれません。更にプライベートスタジオの有用性についても興味を示し、当時のインタヴューで所有のオーディオを聞かれ、「マッキントッシュ マークレビンソン トーレンス JBL等など 1978年当時で200万円」と答えられ、さすがに良いオーディオ所有と感服しました。まぁ洋楽を好み常に最新音楽の流行を探っていた筒美さんには最適の武器だったのでしょう。
    最後に80歳とは音楽家としては若い方だったのですが、十分全うされた人生と思いますし、この筒美京平と言う人は、おそらく「史上最高の作曲家などでは無くて、史上極めて稀な職人音楽家」として長く残るでしょう。SSW=シンガーソングライターの台頭を恐れ危惧していたと聞き及び、おそらくはSSW=「経費削減 儲け独り占め 極めて自己陶酔型音楽」が流行る事を相当以前から恐れていたのは、SSWがどちらかと言えば芸術家肌であり職人とは相反する部分が多く、やがては音楽界に席巻する事を知っていたのか否か? ある意味先見の眼を持っていた最後の昭和の職人が旅立ちました。   合掌

  2. タカミックス より:

    実はアルフィーのデビュー曲が筒美京平と松本隆のタッグだったりする。
    もっとも筒美京平がヒットメーカーと呼ばれる以前の話です。
    また当時のアルフィーも4人組でアイドルのポジションで売り出された頃の話です。
    けどアルフィーのデビュー曲「夏しぐれ」好きなんですよねぇ
    なお「夏しぐれ」では高見沢がハンドマイクで歌っております。

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