わずか2年4ヶ月、844日の活動期間にも関わらず今なお語り継がれ、関連書籍の刊行がやまない伝説のレスラー、初代タイガーマスク。現存する当時の実使用マスクになんと「1,000万円」の値が付く(なんでも鑑定団)など、その人気は衰えを知りません。
本blogでは年次ごとに分けて、タイガーマスク ブームのリアルタイム直撃世代の私から見たデビューから突然の引退までの足跡、マスクやテーマ曲の変遷、そしてライバルとの激闘をご紹介。そして過去に私が編集した、秘蔵ダイジェスト映像も公開します!
第1回目の今回は、デビューした1981(昭和51)年編です!
●期待されていなかったデビュー
1981(昭和56)年4月23日木曜日。タイガーマスクは蔵前国技館で、ダイナマイト キッド戦でデビューしました。
来るべきIWGPに向けて、スタン ハンセンを下したアントニオ猪木がNWFベルトを封印した日です。
翌日のTV中継(4月24日)を、私は幸運にもリアルタイムで観ました。
というのも、当時の私は華やかなガイジンのたくさんいる全日本プロレス贔屓で、黒いパンツで地味な試合ばかりの新日本プロレスはそれほど好きではなく、毎週欠かさず観る、という程ではなかったのです。
この3日前の4月20日から、テレビ朝日系でアニメ「タイガーマスク二世」がスタート。
それに合わせ、「新日本プロレスのリングに実際のタイガーマスクが登場します!」と前宣伝されていたのは知っていました。
しかし、当時11歳の私でさえ、「プロレスラー」タイガーマスクには期待していませんでした。
私が「プロレス」というものを知ったのが原作マンガの「タイガーマスク」です。再放送のアニメの前に、梶原一騎氏原作・辻なおき氏作画の原作マンガを読んでいました。
原作マンガは劇画タッチで、虎の剥製のようなリアルなマスク。
アニメは一転して荒々しいシャープなタッチで、直線的なマスク。
到底再現できるわけがない、と思いました。
そしてもう一つは、当時の猪木 新日プロは
「KING OF SPORTS」
「プロレスこそ最強の格闘技である」
「ゴッチ直伝のストロングスタイル」
を掲げ、馬場 全日プロを「ショーマンスタイル」とこき下ろす、先鋭的な戦闘集団だった、という点です。
子どもだった私ですら、「タイガーマスクとか、そんな子供だましみたいなのやめてくれよ」と思いました。
私よりもう少し年上の、それこそタイガー ジェット シンとの激闘や異種格闘技戦などの”シリアスな新日本プロレス”を生で観て来た世代からすると、
「おいおい、新日も終わったな」
「猪木はテレ朝に言われてこんなの出すなんて、気でも狂ったのか?」
と嘲笑を通り越して、激怒する人も多かったくらいの企画でした。
さらには私も含め多くの人にとっての「タイガーマスク」は「2世」ではなく「伊達直人のタイガーマスク」。
昔の劇画およびアニメのタイガーマスクは飛んだり跳ねたりするレスラーではありませんでした。
TVアニメ「2世」は始まったばかりでしたが、ぶっちゃけ興味もなく、事実人気もありませんでした。
なのでメディア ミックス効果というのはほぼありませんでしたし、後の「アニメの世界を実際に再現した四次元殺法」といったプロレスラー タイガーマスク評価の声は「原作を知らない奴が何言ってんだ」というのが、多くのリアルタイム世代の感覚だと思います。
●デビュー戦の“衝撃”
「ワールドプロレスリング」TV中継でタイガーマスクが入場して来ました。
なんともお粗末なマスクとマントを着た、貧相でカッコ悪い小さなマスクマンに対し、場内からは失笑すら漏れる冷ややかな雰囲気でした。
マスクもマントも白地に色を塗っただけでお世辞にもカッコいいとは言えず、私も心底ガッカリしました。
後に有名になるエピソードですが、発案者の新間寿氏(当時の新日プロ営業本部長)が肝心のマスクの発注を忘れ、玩具メーカーのポピーに頼んで大慌てで間に合わせたマスクは、白い布切れに手書きの、お粗末なモノでした(ご指摘いただきました:ポピーに依頼したのはこの後の「ぬいぐるみ」タイプで、実際は新日プロ社内でのお手製だったそうです:コメント欄参照)。
「なんだこれ(笑)」というのが正直な感想です。
タイツが黒のロングタイツではなくブルーに黄色いラインが入っていて、アニメ新番組も見ていなかった私は「2世はこんなコスチュームなんだ」と思ったのを覚えています。
対戦相手はダイナマイト キッド。藤波辰巳のライバルで、シリアスなスタイルの強豪です。こんなふざけた企画に付き合わされるキッドが気の毒でした。
「場違いな勘違いマスクマンに赤っ恥かかせてやれよ」
そんな通のファンたちの、意地悪な視線がマットに降り注ぎます。
そして試合開始。
タイガーマスクはいきなり、見たことのないステップでリング内をクルクル回り出しました。
そして、目の覚めるような回し蹴りを一閃!
失笑がどよめきに変わります。
リング下では新間寿氏が、観客席では原作者 梶原一騎氏が、心配そうにタイガーの一挙手一投足を見つめています。前田、平田ら若手のセコンド陣も、そして会場のどこかで、アントニオ猪木もでしょう。
ここからは魔法を見ているかのようでした。
手を取る、脚を取る、クルクル回る。見たこともない動きとスピード。
「プロレス図鑑」でしか見たことのないエドワード カーペンティアの必殺技 サマーソルトキックまで繰り出します。
観客はあっけにとられ、聞こえるのは歓声というより唸るようなどよめきです。
エプロン リングサイドで胃の痛そうな顔をしていた新間寿氏が、リング下で観客にわからないように手を叩いて喜んでいます。
場外でも猛烈な蹴りの速射砲。
実況の古舘伊知郎アナ「肌の色からして東洋人ですか?」
解説の櫻井康夫さん「タイのムエタイの動きですね」
そして9分29秒、新日プロの原点とも言うべき「プロレスの芸術品」ジャーマン スープレックス ホールド(原爆固め)を繰り出し、ダイナマイト キッドをピンフォールしてしまいました。
鳥肌が立ちました。
■「原爆固め」の意味
いまではつなぎ技で、新人でも使いますが、当時、「原爆固めは幻の大技」でした。
日本人ではヒロ マツダが初公開したこの技は、言うまでもなくアントニオ猪木の必殺技で、カール ゴッチの代名詞です。次いでの使い手は藤波辰巳で、改良した「ドラゴンスープレックスホールド(飛龍原爆固め)」を必殺技としていましたが、猪木も藤波もこの当時、試合ではあまり使わなくなっていました。
言ってみればこの頃の「原爆固め」は新日プロのストロング スタイル、ゴッチの直弟子である象徴のような、特別な、かつ幻の大技だったのです。
それを軽々と、この謎のマスクマンがやってのけたのは、どういう意味なのか。この時は「正体不明」なため、ゴッチや猪木との関係はまったくもってわかりませんでしたが、とにかくこのタイガーマスクは並の選手じゃない、子供だましのピエロじゃない、ということだけはハッキリ伝わりました。
正体への興味はもちろんでしたが、なにより試合が凄すぎました。これまで観た誰よりも速く、無重力のようにクルクル回り、そして一挙手一投足が美しい。
翌日の教室では「昨日のプロレス観た?タイガーマスク、すごいよね」という会話ばかり。「何がすごいの?」と見てない子から訊かれても、「とにかくすごいんだよ」としか答えられないのです。
●メキシコ遠征
ここからしばらくの間、TV中継ではタイガーマスクの姿は見かけませんでした。
4月23日のデビュー戦直後は5月8,9,10日にブラック キャット、斎藤弘幸(ヒロ斎藤)など日本陣営と戦い、12日にクリス アダムスと対戦。13日に再び斎藤と対戦した後、メキシコへ。
5月17日から25日まで“ティグレ エンマスカラド”と名乗りメキシコをサーキットして、グラン浜田や小林邦昭、そしてなんとビル ロビンソンともタッグを結成して現地でも人気爆発となったそうです。
●日本定着へ
記憶が確かなら、TV再登場は6月4日の藤波辰巳とのタッグでのvsクリス アダムス、マイク マスターズ戦。
ヘビー級転向を宣言した藤波辰巳との竜虎タッグはカッコよかったです。
続いては6月24日、新日本設立10周年記念スーパーファイト蔵前大会でビジャノⅢ号戦。
この時、タイガーマスクは「日本長期滞在」を発表しました。
8月2日、後楽園ホールでのスコルピオ戦。この試合はタイガーの身体能力の異常ぶりがよくわかる試合です。4日にも蔵前でスコルピオと対戦し、タイガースープレックスを初公開。
タイガーマスクの技にオリジナルのネーミングが付き始めた時期です。
8月21日には日本で初めて外国人とのタッグを結成。
エル ソリタリオと組みオロとプラタのブラソ兄弟を翻弄します。
●エル ソラールとの腕折りマッチ
9月23日、田園コロシアムでの”太陽仮面”エル ソラール戦。
試合中にアクシデントで肩を脱臼したソラールに対し腕を引っ張って治療(?)するレフェリー山本小鉄さんが鬼。(後に「プロレス スーパースター列伝」では正体をバラしたおしゃべりソラールを怒りのタイガーが制裁した、という梶原ファンタジーが描かれました)
●マスクド ハリケーンとの覆面剥ぎマッチ
10月8日、蔵前においてマスクド ハリケーンとの覆面剥ぎマッチ。
敗れたハリケーンは潔くマスクを脱いで素顔をさらしました。
この試合頃から「タイガーは負けたらマスクを脱ぐ」という都市伝説が生まれた気がします。これは公式にはアナウンスされていなかったと思いますが、当時の子ども達の多くはそのウワサを信じていました。
●グラン浜田との同門対決
11月5日、先輩であるグラン浜田との蔵前決戦。
メキシコでの実績はオレの方が上、と意地でも負けたくない浜田がタイガーを追い詰めますがリングアウトでタイガーが辛勝。
●日本人レスラーとの対戦
この年、タイガーマスクはジョージ高野、寺西勇、そして高田伸彦ともシングルで対戦しています。
地方でのノーTVマッチのため、映像は残っていないのが残念です。
●帝王 エル カネックに大苦戦
12月8日、蔵前でエル カネックと対戦。
サイズの大きいヘビー級のカネックは「メキシコの帝王」の意地を見せ技をスカすなどタイガーマスク史上でも珍しい大苦戦。なんとか両者リングアウトに持ち込みますが左足首を骨折。
翌元旦に予定されているWWF Jr.王座決定戦が大ピンチとなり1年目が終わりました。
●「プロレスはサーカスじゃない」
新日プロのショー化を声高に批判していた「通」のファン達も、タイガーマスクの信じられない空中殺法と、その合間に垣間見せるグラウンドや投げなどのテクニックの高度さ、確かさを見せ付けられ、徐々にトーンが下がっていきました。
「だって、なにやっても凄いんだもの」
それまで偉そうに理屈をこねていたマニアも、単なる子どものようになってしまう、衝撃。
理屈と常識が通用しない“タイガームーヴ”は、やがて爆発的ブームを巻き起こします。
■正体は誰だ?
デビュー当初、タイガーマスクは「来日」して、なんとインタビューはスペイン語で会話していました。
年齢、国籍もまるきり謎、の報道管制が引かれていました。
古株のファンたちは、海外遠征に出ている選手の中に正体がいるはずだ、として早くから「佐山サトル説」を唱えている人もいました。(ほかには栗栖正伸やグラン浜田など、絶対違うでしょ、という説もありましたが)
■”天才”佐山サトル
佐山サトル(佐山聡)は1957(昭和32)年、山口生まれで当時24歳。
1975(昭和50)年に17歳で新日プロに入門します。
公称173センチの小柄な体格で、入門を許可した新間氏は「また小さいの入れやがって!」と猪木に怒られた、と後述しています。
しかし、持ち前のセンスとたぐいまれなる身体能力で頭角を現し、入門2年目から猪木の付け人を務めています。
道場で一緒に練習していたレスラーたちは「なにやらせても一回で覚える」「柔軟性も腕力も脚力も異常」と口を揃えます。
そして1977年、転機が訪れます。
梶原一騎氏主催「格闘技大戦争」において、佐山は全米プロ空手ミドル級第1位マーク コステロと「ボクシンググローブ着用、統一ルール」で対戦。これは、当時佐山が厳しい新日道場での練習に加えて、会社には内緒で打撃のジムに通っていたところを買われての大抜擢でした。しかし、6R終了までなんとか持ちこたえますが何もできず、屈辱の判定負けとなりました。
その後、佐山は78年にメキシコ、アメリカのカールゴッチ道場を経由して80年からは英国マットで武者修行し、英国では素顔の”サミー リー”としてタイガーマスク ブームに匹敵するほどの一大旋風を巻き起こしている最中での帰国でした。
▼英国武者修行時代の映像
インターネットもない時代、この英国での大ブレイクを知る日本人はほとんどいませんでした。
名声や人気というものに無頓着な佐山サトルには、覆面を脱いだら普通の人になれる「正体不明」は都合がよかった、と言います。
練習後、道場からタクシーに乗って帰ると運転手に
「タイガーマスクってほんとは弱いんでしょ。小さいし」
と言われ、
「そうですよね~」
と答えた、と笑っていました。
●この年の着用マスク
デビュー
新間氏が手配を忘れ、玩具メーカーに依頼して急造したエピソードは有名。
白地に手描きの模様が施されただけのチープな出来栄えに、本人も絶句したそう。
縫いぐるみ
劇画を忠実に再現したものの着け心地は最悪だったそうでエキシビジョンマッチ、メキシコなどわずかな期間でボツになりました。
牙付き
6月の日本定着から年末まで着用。デザイン的にいきなりカッコよくなります。歴代のマスクでも完成度としては最高峰ですが、頭でっかちに見えることと、なにより試合をするには視界や呼吸の面で難があり、自身でハサミで加工するなどして改造を繰り返したそうです。
▶初代タイガーマスク伝説 2年目、1982(昭和57)年に続きます!
初代タイガーマスク シングル全戦績① 1981年
◆35勝2引き分け
*タッグ戦、海外での試合は含まれていません
04月23日 蔵前国技館(9分29秒 原爆固め)ダイナマイト キッド 〇
05月07日 京王プラザホテル 斉藤弘幸 *エキシビジョンマッチ -
05月08日 川崎市体育館(6分51秒 アバラ折り)ブラック キャット 〇
05月09日 焼津市スケートセンター(5分46秒 原爆固め)斉藤弘幸 〇
05月10日 後楽園ホール(8分52秒 エビ固め)ブラック キャット 〇
05月12日 名取市民体育館(7分42秒 エビ固め)クリス アダムス 〇
05月13日 横浜文化体育館(6分4秒 原爆固め)斉藤弘幸 〇
06月24日 蔵前国技館(15分55秒 リングアウト)ビジャノⅢ号 〇
07月31日 大阪府臨海スポーツセンター(8分32秒 両者リングアウト)スコルピオ △
08月02日 後楽園ホール(8分55秒 回転エビ固め)スコルピオ 〇
08月03日 八戸市体育館(8分41秒 リングアウト)ブラック キャット 〇
08月05日 須賀川市体育館(8分13秒 アバラ折り)ブラック キャット 〇
08月06日 蔵前国技館(10分18秒 原爆固め)スコルピオ 〇
08月28日 諫早市体育館(10分54秒 体固め)ブラソ デ オロ 〇
08月29日 串間市総合体育館(10分36秒 体固め)ブラソ デ オロ 〇
09月12日 塩釜市仲卸市場(10分12秒 体固め)ブラソ デ オロ 〇
09月17日 大阪府立体育会館(10分1秒 原爆固め)ブラソ デ プラタ 〇
09月23日 田園コロシアム(8分51秒 腕固め)エル ソラール 〇
10月09日 蔵前国技館(7分9秒 体固め)マスクド ハリケーン *覆面剥ぎマッチ 〇
10月16日 大分県立総合体育館 (8分14秒 体固め)エル テハノ 〇
11月03日 大船渡市体育館(11分2秒 体固め)エル シグノ 〇
11月05日 蔵前国技館(17分1秒 リングアウト)グラン浜田 〇
11月19日 後楽園ホール(13分37秒 逆エビ固め)ジョージ高野 〇
11月20日 志木市民体育館(7分37秒 体固め)ブラック キャット 〇
11月21日 松阪市総合体育館(10分2秒 体固め)寺西勇 〇
11月22日 徳之島亀津闘牛場(10分43秒 体固め)ブラック キャット 〇
11月23日 小林市立体育館(12分19秒 体固め)ジョージ高野 〇
11月24日 鹿児島県体育館(11分42秒 リングアウト)寺西勇 〇
11月25日 熊本市体育館(10分52秒 体固め)ブラック キャット 〇
11月27日 徳島市体育館(11分6秒 体固め)高田伸彦 〇
11月28日 沼津市体育館(12分16秒 体固め)ブラック キャット 〇
11月29日 富士急ハイランド大ホール(12分30秒 逆さ押え込み)寺西勇 〇
12月02日 高松市民文化センター(11分6秒 吊り天井固め)ジョージ高野 〇
12月03日 岡山県営体育館(11分58秒 体固め)ブラック キャット 〇
12月04日 郡山市総合体育館(12分15秒 体固め)ジョージ高野 〇
12月05日 福島市体育館(10分22秒 体固め)ブラック キャット 〇
12月06日 十和田市体育館(11分22秒 体固め)ジョージ高野 〇
12月08日 蔵前国技館(11分36秒 両者リングアウト)エル カネック △
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コメント
度々すみません。もう一つありました。デビュー戦マスクですが、玩具メーカーの製作は誤りです。あのマスクは、当時新日のパンフレット等を担当していた外部デザイナーの奥野哲郎さんによるものです。手縫い部分は新日事務所の女子社員がやってくれたそうです。ポピーが製作を担当したのはヌイグルミマスクです(実製作はレインボー造形)。当時マスク製作のノウハウは国内には無かったので、特撮番組の小道具製作会社に頼んだのですね。いわゆる牙付きはとある女性職人が作りましたが、本人が名前を出したくないと言っているので、不明のままです。1982年正月からは豊島さんが作るようになります(古舘さんの紹介だったそうです)。
どらドラゴンさん、デビュー戦マスクの詳細ありがとうございます!新間さんもうろ覚えで間違って喋ってそれが広まってしまったのですね。デザイナーはプロなれど、女子社員の手作りだったとは驚きです(笑)
牙付きは屈指の出来栄えですが、製作者は不詳なのですね。それにしても古舘さんはなぜマスク職人をご存じだったんでしょう。