ヒロ・マツダとアントニオ猪木~①国際プロレス旗揚げ・東京プロレスとの因縁

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後にビル・ロビンソンやストロング小林、ラッシャー木村、マイティ井上などがエースとして活躍した「国際プロレス」。旗揚げ時のエースは、吉原功氏と共に同団体を立ち上げたヒロ・マツダでした。

 

 

ヒロ・マツダは当時、「海外で最も成功した日本人プロレスラー」。力道山没後の1960年に日本に凱旋したマツダはその後、レスラーとして国際プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスに参戦する一方、フロリダ地区CWFのブッカーとしてアントニオ猪木、ストロング小林、マサ斎藤、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、藤波辰爾、武藤敬司らを招聘しました。

 

加えてマツダは、ハルク・ホーガン、ポール・オンドーフ、レックス・ルーガー、ロン・シモンズなどを育て上げた“名伯楽“としても知られます。自らもNWA世界ジュニアヘビー王座など数多くのタイトルを獲得したレスラーとしての実績に加えて、この「日米プロレス界の架け橋」としての貢献も評価され、2018年にはWWEの名誉殿堂「ホール・オブ・フェーム」のレジェンド部門で殿堂入り。これは当時、2010年のアントニオ猪木、2015年の藤波辰爾、2017年の力道山に続く、日本人4人目の栄誉でした。

 

 

そしてヒロ・マツダは、アントニオ猪木とは浅からぬ因縁があります。

 

共にカール・ゴッチを師に仰ぎ、日本のリングで「日本人で初めてジャーマン・スープレックスを披露した」のはマツダでした。猪木の武者修行中にテキサスでタッグを結成、国際プロレス旗揚げ時には東京プロレスと共闘。そして1978(昭和53)年に唯一行われた両者のシングルマッチは、佐山聡(初代タイガーマスク)氏が近年、「何気ない攻防の中に技術がたくさん詰まっている」と絶賛しています。

 

これまでもこのBlogでは、猪木視点での東京プロレス、そして国際プロレスの旗揚げについて取り上げていますが(本記事中にリンクあり)、今回は「ヒロ・マツダからの視点」でその足跡を振り返り、今こそ見るべき試合、1979年のプレ日本選手権シリーズ優勝決定戦、ヒロ・マツダvsアントニオ猪木戦に迫ります。

 

ヒロ・マツダとアントニオ猪木~

①国際プロレス旗揚げ時の東京プロレス・猪木との因縁
②日本選手権開催を巡る3団体の攻防と「日本リーグ争覇戦」
③宿命の一騎打ち―「プレ日本選手権」アントニオ猪木vsヒロ・マツダ戦

 

「力道山に反逆した男」ヒロ・マツダとは

 

ヒロ・マツダ、本名:小島泰弘(こじまやすひろ)。1937(昭和12)年7月22日生まれ。
奇しくも同郷の横浜市鶴見区出身のアントニオ猪木よりも6歳上です。

 

荏原高等学校野球部でエースとして活躍し、卒業後の1957(昭和32)年に日本プロレス入門。当時の日プロは旗揚げからのブームが去り、プロレス人気が若干、下火になっていた時期だと言われます(翌1958/昭和33年に力道山がテーズからインターナショナル王座を奪取して、人気が再燃)。

 

マツダは入門からわずか3年目の1960(昭和35)年、日本プロレスを退団。横浜港から単身、叔父のいるペルーに渡ります。

 

その理由は「力道山が相撲部屋の慣習から持ち込んだ上下関係などの不文律や理不尽な暴力、そして負傷欠場すると“根性がない”などと言われる日本独自の精神論に反発した」と言われています。まだ“ハラスメント”の概念もない時代ですし、さらには当時、絶対的な国民的ヒーローであり、日本プロレス界の専制君主だった力道山に反発することはイコール、日本でプロレスラーとしてやっていけないということになります。

 

そのためマツダの渡航時、港まで見送りに来たのは兄貴分として慕う、先輩レスラーの吉原功だけだったとか。それにしてもこの時代に単身で、それも遥か遠い南米ペルーとは・・・。おそらくマツダはこの時点では、もう祖国の地を踏むことはない不退転の決意だったことでしょう。

 

当時のペルーは治安も悪く、反日感情も悪かったと言います。マツダはエルネスト・コジマを名乗り試合をこなしますが、命からがらメキシコを経由して1961(昭和36)年にアメリカへ転戦。リングネームをコジマ・サイトー、グレート・マツダ、そしてヒロ・マツダに改めます。“マツダ” の名は、1880年代のソラキチ・マツダ、1920年代のマティ・マツダという、アメリカで活躍した2人の日本人レスラーにあやかったリングネームでした。

 

マツダはこの時、フロリダでカール・ゴッチの指導を受け、スネーク・ピット直伝のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンや、長く自身のフィニッシュホールドとなるジャーマン・スープレックスを身に付けました。このゴッチとの邂逅が、その後のマツダにとって大きな“武器“となりました。

 

 

アメリカ南部での活躍、NWA世界Jr.王者に

 

そこからマツダは、日系レスラーでは当時としては異例の「技巧派のベビー・フェース」として、アメリカ南部で活躍します。

 

 

アメリカでもまだ真珠湾攻撃の反日感情が色濃いこの時代。海外で活躍する日本人や日系レスラーは裸足に膝下までの田吾作タイツ、ハッピ姿で「神風」と書いたハチマキを巻き、下駄や竹刀で殴る、塩で目潰しするなどの「卑怯者なヒール(悪役)」を演じることが”常識”でした。

 

しかしマツダは(ベアフッド=裸足ではあるものの)黒のショートタイツ姿の正統派スタイルで、日系アメリカ人のデューク・ケオムカとタッグを結成。スカル・マーフィー&ブルート・バーナードや、フレッド・ブラッシー&ターザン・タイラーなどのヒール強豪チームを下して(フロリダ版)NWA世界タッグ王座を再三獲得するなど、トップクラスで活躍します。

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しかし、「力道山に逆らった男」マツダの活躍は、力道山の存命中は日本国内では長く伏せられていました。それが、1963(昭和38)年末に力道山が死去したことで、潮目が変わります。

 

 

そんな中、1964(昭和39)年7月、マツダは約4年間もタイトルを保持していた“鳥人”ダニー・ホッジを破り、NWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得。これが「日本人初のNWA世界王座奪取の快挙」と日本でも大々的に報じられ、日本国内に「マツダ待望論」が巻き起こります。

 

 

さらにマツダは当時のNWA世界ヘビー級王者、ルー・テーズにもたびたび挑戦。12月10日にジャクソンビルで60分時間切れ引き分けも演じました。

 

 

マツダ、日本プロレスに凱旋

 

そして1965(昭和40)年12月24日、マツダは待望の一次帰国。羽田空港には多くのファンが集まり、当時日本プロレス社長の豊登と、レスラーを引退し営業部長となっていた吉原功が出迎えて大歓迎を受けました。そしてマツダは豊登と握手を交わし、「日本プロレス復帰」を宣言。翌12月25日、日本プロレスのリキパレス定期戦ではリング上から挨拶し、満員の観衆から拍手を浴びました。

 

 

帰米後の翌1966(昭和41)年1月には、アメリカ武者修行中の若きアントニオ猪木とタッグを結成。「エディ・グラハム&サム・スティムボートから、(テネシー版)NWA世界タッグ王座を奪取した」と報じられました。

 

 

猪木は後年、この時のマツダの印象を「日本プロレスでは極めっこのスパーリングでは誰にも負けなかったが、マツダさんはカール・ゴッチから教わった、私の知らないテクニックを持っていた」と語っています。猪木がゴッチからキャッチの技術を伝授されるのは、この数年後。猪木がゴッチに真剣に師事したきっかけの一つが、この時のマツダとのスパーリングにあったのではないでしょうか。

 

そして5月、マツダはレスラーとして日本プロレスに凱旋帰国。日本プロレスはパートナーのデューク・ケオムカ、ライバルのエディ・グラハムとサム・スティンボードもシリーズに参戦させるなど、万全の体制で迎えます。

 

 

 

マツダは日本人として初めてゴッチ直伝のジャーマン・スープレックス(原爆固め)を披露。さらに吉村道明と組んでキラー・カール・コックス&ジョー・カロロを破りアジアタッグ王座を獲得するなどの活躍をみせ、シリーズは連日超満員。インター王者のエース・ジャイアント馬場をも凌駕する人気で、「マツダ・ブーム」が巻き起こりました。

 

 

東京プロレスとのマツダ争奪戦

 

日本プロレスがこのようにマツダを「厚遇」したのには、理由がありました。それは、博打狂いで会社の金銭を横領し、1966(昭和41)年1月に日本プロレス社長の座を追われた豊登が「新団体を旗揚げする」と画策していたからでした。

 

そして3月、豊登は第8回ワールドリーグ戦に凱旋帰国する予定だったアントニオ猪木をハワイで説得、引き抜くという「太平洋上の猪木略奪事件」を引き起こします。この時点で豊登は「5月末に新団体を旗揚げする。猪木、大木、渋谷、クオムカが参加、マツダも誘う」とマスコミに公言していました。

 

 

この動きに対し、日本プロレスは外国人ブッカーであるミスター・モトを通じて、母親同士が姉妹であるツテでケオムカを抑え、マツダの帰国を実現させたと言われています。

 

こうして“マツダ凱旋シリーズ”は大成功を収めますが、ここで、もう1人のキーマンが動き始めます。

 

それが、吉原功氏でした。

 

マツダ・吉原氏の新団体旗揚げ計画

 

吉原功氏はレスラー引退後、日本プロレスで営業部長として活動していましたが、経理担当重役である遠藤幸吉氏とソリが合わず、事あるごとに対立していました。

 

 

力道山の没後、事業のための膨大な借金が明るみに出ると、日本プロレスは渋谷の常設会場「リキパレス」の売却を検討します。吉原氏は「力道山の遺産であるリキパレスは日本プロレスで買い取るべきだ」と主張、資金集めを行っていましたが、遠藤幸吉氏はこれに猛反対。「吉原はリキパレスの乗っ取りを企てている」とのデマを周囲に吹聴し、吉原氏の計画を潰してしまいます。

 

 

これに怒った吉原氏は退社を決意。人気絶頂のマツダをエースにするべく、マツダと接近します。

 

もともとマツダにとって吉原氏は、道場時代に世話になった先輩であり、兄貴分。前述の通り海外へ飛び出す際、見送りに来てくれたのも吉原氏だけでしたし、今回の凱旋帰国時も吉原氏は何かと尽力してくれた恩人です。吉原氏としても凱旋シリーズのマツダ人気を目の当たりにして、「マツダをエースにすれば、独立して新団体がやれる」と考えて不思議ではありません。

 

マツダが新団体参加を快諾すると、吉原氏はさっそく「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社」の会社登記を済ませ、日本プロレスを退団した草津正武(グレート草津)、杉山恒治(サンダー杉山)を連れて10月に渡米。マツダとケオムカが株を持ち、ブッカーとしても活動するアメリカ・フロリダマット「CWF (Championship Wrestling from Florida)」と提携を結びました。

 

 

こうしてガイジン・ルートを確保した吉原氏は、草津と杉山を修行のためフロリダに残し、マツダと共に帰国。1966(昭和41)年4月24日に記者会見を開き、新団体「国際プロレス」の設立を発表しました。

 

国際プロレス社長には吉原氏、マツダは取締役に就任しました。しかし、ガイジンレスラーのルートは確保したものの、日本人レスラーはマツダと、マツダの高校の後輩(マティ)鈴木、まだデビュー前の草津と杉山のみ。

 

そこで吉原氏は「団体間で潰し合うことはせず、日本プロレス界の発展に尽力したい。プロレスは相撲の社会とは違う。アメリカと同様のスタイルのスマートな団体とする」と語り、シリーズごとに選手と出場契約を交わし、試合をするリングのみを提供する、アメリカに倣った興行形態「フリーランス・システム」を提唱。日本プロレスに協力を求めますが、当時は「日本プロレス以外は、プロレス団体に非ず」という時代。当然のごとく拒否されます。

 

そこで吉原氏は、国際プロレスより先に旗揚げしていた東京プロレスとの連合を画策します。

 

東京プロレス・猪木との合体

 

東京プロレスは若干23歳のアントニオ猪木をエースに、同年10月12日に旗揚げ。蔵前国技館での旗揚げ興行こそ盛況でしたが、その後の地方興行は大苦戦。11月21日には観客の不入りのため野外興行を中止にしようとして、怒った観客が会場に火をつける「板橋事件」が発生。資金的にも行き詰まり、金銭トラブルで猪木派と豊登派に分裂する状態となっていました。

 

 

試合がしたくてもできず、金銭的にも追い詰められていた猪木は、アメリカでタッグを組んでいたマツダからのオファーに応じ、東京プロレスの選手らと共に国際プロレス参戦を決意。

 

11月29日には吉原氏と猪木が会見を開き、東京プロレスと国際プロレスの提携を正式発表。翌年1月の国際プロレス旗揚げ「パイオニア・シリーズ」は、両団体の合同興行として開催されることが決まりました。

 

 

国際プロレス旗揚げに隠されたNWAの野望

 

そして1967(昭和42)年1月5日、大阪府立体育会館で国際プロレスが旗揚げ。若きマツダと猪木のWエースが売りでした。「合同興行」とはいえ、主催は国際プロレスであり、東京プロレス側にギャランティを支払う契約でした。

 

 

旗揚げ戦には猪木らの東京プロレス勢に加えて、ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハム、ジョニー・バレンタインを招聘。メインイベントはホッジvsマツダのNWA世界ジュニアヘビー級選手権が実現しました。

 

未加盟団体である国際プロレスでNWAの世界タイトルマッチが行われることは異例。それだけに吉原氏とマツダの政治力が評価されますが、実はこの裏には、ある陰謀が潜んでいました。

 

それは、エディ・グラハムによる、「国際プロレスをフロリダマットの日本支部にする」という計画です。

 

当時、日本プロレスはまだNWAに未加盟。それゆえにフロリダ地区でプロモーターとしてCWFを運営するグラハムはNWA会長のサム・マソニックと話をつけ、国際プロレスを使って日本マーケットへの進出を狙っていました。グラハムはゆくゆくは国際プロレスの株主となって吉原社長を追い出して「乗っ取る」つもりであり、このプランにはマツダも絡んでいた、と言われています。

 

 

旗揚げシリーズはアメリカでコンビを組んでいた猪木とマツダのタッグ結成、アメリカサイズのリング、タレントによるリングアナウンスなどの演出で話題を呼びましたが、TV局との放映契約が結べなかったことが尾を引き、動員は振るわず。

 

 

 

東京プロレスとの”蜜月”も、このシリーズのみで破綻してしまいます。

 

 

延期されたTBS中継プラン

 

旗揚げに際して、吉原社長は高校時代から付き合いのあるTBSのプロデューサー、森忠大氏と接触。当時、プロレス団体運営には必須であったTV中継の放送権料を獲得しようと協議を重ねていました。

 

森氏は1月18日の台頭大会を視察。猪木・マツダを評価して、上層部に企画書を提出。この時の上申書には「猪木とマツダの試合を放送するのが絶対条件」の一文があり、TBSは吉原氏に対し、猪木の国際プロレス入団を要請したとされます。

 

 

TBSはかつて、KRテレビと名乗っていた時代に日本プロレスを中継した実績があります。しかし1957(昭和32)年、後楽園球場で行われたルー・テーズvs力道山の放映権を巡り力道山とトラブルになって撤退した経緯があり、上層部はプロレス中継には慎重な姿勢を示していました。

 

4月、ようやくTBSがTV中継にGOサイン。しかし、国際プロレスは旗揚げシリーズでの不入りにガイジンレスラーへの高額な報酬の支払いが重なり、早くも資金難に。そしてギャランティを巡り猪木と吉原社長が対立。

 

二枚看板の一つである猪木が欠けたことで、TV放送開始が保留となってしまいます。

 

吉原社長と猪木が衝突、日プロ復帰で東京プロレスが崩壊

 

猪木ら東京プロレス勢が国際プロレスに参戦するにあたって、吉原氏は豊登と田中忠治の2人が不参加だったことを理由にギャラの減額を通告。猪木はこれに納得せず、当初の約束通りのギャラを支払えと要求。吉原氏と衝突します。

 

この時、猪木は東京プロレスの運営を巡って豊登、新間信雄・寿親子らと告訴合戦を繰り広げており、さらに古巣である日本プロレスから復帰要請を受けていました。

 

結局、猪木は自民党副総裁・日本プロレスコミッショナーである川島正次郎氏の立会いの下、1967(昭和42)年4月6日に記者会見を開いて日本プロレス復帰を発表。これにより東京プロレスは崩壊し、国際プロレスとの蜜月は旗揚げシリーズだけで終了してしまいました。

 

 

この時、猪木と共に日本プロレスに復帰できたのは永源勝(永源遙)、北沢幹之、柴田勝久ら。木村政雄(ラッシャー木村)、寺西勇らは、国際プロレスに残留となりました。

 

この一連のゴタゴタとTV中継先送りにより、国際プロレスは次期シリーズ開催の目途が立たなくなります。しかし吉原社長は懸命に資金繰りを行い、5月30日には猪木と対立する豊登の参戦が決定。マツダとのタッグ結成を目玉に、7月27日からの新シリーズ開催を発表します。

 

 

この頃、アメリカではグラハムが国際プロレスをNWAに加盟申請。グラハムとマツダの国際プロレス・フロリダ支部計画も進められていました。

 

国際プロレスvs日本プロレスの興行戦争「大坂夏の陣」

 

8月11日、TBSが大分大会をテスト収録。その3日後の8月14日には、大阪で日本プロレスから興行戦争を仕掛けられます。これは大阪府立体育会館での国際プロレスの興行同日に、日本プロレスが急遽、大阪球場大会を敢行したもの。マスコミは「大坂夏の陣」と報じて注目されました。

 

ジャイアント馬場vsジン・キニスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦をメインに据えて2万人の観衆を集めた日本プロレスに対し、ヒロ・マツダ&サム・スティムボートvsロジャー・カービー&ビル・ドロモ戦で臨んだ国際プロレスは4,200人と、その差は歴然。

 

 

猪木を復帰させた日本プロレスは飛行機によるビラまき作戦に加え、当時のNWA会長、ジム・マソニックを来日させるなど、総力を挙げて「国際プロレス潰し」に乗り出し、興行戦争で圧勝してみせました。

 

そしてその翌日。4月15日にラスベガスで開催されたNWA総会において、日本プロレスのNWA加盟が正式に認められました。これによってグラハム-マツダの国際プロレス・フロリダ支部化計画は、失敗に終わります。

 

その後、マツダはシリーズの債務履行を巡り吉原社長と決裂、国際プロレスから撤退。マツダを慕う鈴木も追随してアメリカに渡り、フリーランスの道を選択。鈴木は後に日本プロレスにマティ鈴木として来日しています。

 

猪木とマツダの二枚看板に去られたTBSは、すでに発表していたプロレス中継計画をゼロベースで練り直すことになりました。吉原氏はグレート東郷をブッカーに招き、草津正武をグレート草津、杉山恒治をサンダー杉山にそれぞれリングネームを改めさせ、ガイジン勢と若き2人によるエース路線へと転換を図ります。

 

 

そして1968(昭和43)年1月3日、日大講堂大会で宿願のレギュラーでTBSのTV中継がスタート。ここから国際プロレスは、さまざまな独自路線を開拓しながら、波乱万丈な歴史を重ねていくことになります。

 

②日本選手権開催を巡る3団体の攻防と「日本リーグ争覇戦」

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