ヒロ・マツダとアントニオ猪木~②日本選手権開催を巡る3団体の攻防と「日本リーグ争覇戦」

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hiromatsuda_inoki_02 プロレス
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ヒロ・マツダの視点からその足跡を振り返り、今こそ見るべき試合、1979年のプレ日本選手権シリーズ優勝決定戦、ヒロ・マツダvsアントニオ猪木戦に迫るシリーズ。

 

②の今回は、日本選手権開催を巡る、国際・新日本・全日本プロレスの3団体の攻防に迫ります。

 

国際・新日本・全日本プロレス

 

ヒロ・マツダとアントニオ猪木~

①国際プロレス旗揚げ時の東京プロレス・猪木との因縁
②日本選手権開催を巡る3団体の攻防と「日本リーグ争覇戦」
③宿命の一騎打ち―「プレ日本選手権」アントニオ猪木vsヒロ・マツダ戦

 

マツダ、全日本プロレス「オープン選手権」に出場

 

1971(昭和46)年、アントニオ猪木が「会社乗っ取りを企てた」として追放処分を受け、翌1972(昭和47)3月に新日本プロレスを旗揚げ。同年10月にはジャイアント馬場も日本テレビの要請を受けて、全日本プロレスを旗揚げ。日本マット界は、独自路線を続ける吉原氏の国際プロレスと、大木、坂口らが支える日本プロレスの4団体となりました。

 

その後、坂口がNET(現:テレビ朝日)と共に新日本プロレスに合流し、1973(昭和48)年4月には日本プロレスが崩壊。

 

国際プロレス:TBS
全日本プロレス:日本テレビ
新日本プロレス:NET
の3団体時代となりました。

 

そんな中、マツダは1973(昭和48)年から1976(昭和51)年にかけて、全日本プロレスに参戦しています。

 

1975(昭和50)年12月には、馬場・日本テレビが執拗に馬場に対戦を迫る“猪木対策”として開催した「オープン選手権」に参加。

 

オープン選手権

 

この時期、ストロング小林を引き抜かれた因縁のある吉原社長・国際プロレスは、ジャイアント馬場・全日本プロレスと「猪木潰し」で協調路線を歩んでいました。

 

 

12月11日、アントニオ猪木vsビル・ロビンソン戦と同日に日本武道館で行われた「力道山十三回忌追善合同大試合」では、マツダは過去の遺恨を水に流し、国際プロレスのマイティ井上を相手に、同年6月にケン・マンテルから奪取したNWA世界ジュニアヘビー級王座の防衛戦を行っています。

 

 

 

マツダ、新日本プロレスと接近

 

ところが1978(昭和53)年、今度は新日本プロレスがマツダと接近します。

 

マツダは国際プロレスを退団してフリーになった剛竜馬をコーチ。同年7月27日に行われた新日本プロレスの日本武道館大会で剛のセコンドとして来日。藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級選手権試合をリングサイドから見守りました。

 

 

 

この背景には、フロリダマットと新日本プロレスの提携交渉がありました。

 

マツダは70年代には現役としては一歩引き、ブッカーの役割を務めていました。フロリダはNWAの中でも活況のテリトリーとして知られ、新日サイドとしてはマツダを通じてプロモーターのエディ・グラハムに接近し、NWAルートを開拓しようとの目論見があり、フロリダ側も新日本と提携するWWFとの連携強化を狙っていました。

 

この画策は功を奏し、新日本プロレスはフロリダルートを開拓。後にダスティ・ローデスやハルク・ホーガンらの招聘につながります。

 

一方、グラハムはフロリダ在住のカール・ゴッチとは折り合いが悪く、この動きによってマツダとゴッチ、新日本とゴッチの間にも亀裂が生じたと言われています。

 

「日本選手権」開催を巡る3団体の攻防~国際プロレス「日本リーグ争覇戦」とは

 

マツダとのルートを確立した新日本プロレスは、1979(昭和54)年、かねてから猪木が標榜する「プロレスラー実力日本一を決定する日本選手権大会の準備段階」として、新日本所属レスラーとフリーの日本人レスラーによるリーグ戦「プレ日本選手権」の開催を発表しました。

 

当然、全日本プロレスのジャイアント馬場はこれを無視。国際プロレスが同時期に「吉原功プロレス生活25周年」として開催した「日本リーグ争覇戦」に、ジャンボ鶴田ら主力選手を多数派遣して対抗します。

 

日本リーグ争覇戦

日本リーグ争覇戦

 

しかしこの頃から、国際プロレスと全日本プロレスの間に不協和音が生じます。

 

国際プロレスと新日本プロレスは剛竜馬の契約を巡って裁判沙汰になっていましたが、その和解交渉を通じて新間氏が吉原社長と接触。国際が主催の「日本リーグ争覇戦」に山本小鉄、星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズを派遣する話が持ち上がりました。しかし、ジャイアント馬場が横やりを入れ、この計画を潰してしまいます。

 

さらに、肝心のリーグ戦も全日本プロレスへの忖度がひどく、国際勢はアニマル浜口が新人の石川孝志とドローに終わるなど全日本の中堅・若手に大苦戦。優勝こそラッシャー木村でしたが相手はかつて馬場に完敗したパット田中であり、全日本の3番手であるキム・ドクと同格の扱いを受けるなど、その「不平等条約」ぶりが露に。興行的にも失敗に終わります。

 

当時の国際プロレスは、視聴率の低迷から1974(昭和49)年4月でTBSから放送を打ち切られ、8月から東京12チャンネル(現:テレビ東京)の中継に変わりました。苦しい台所事情から放送権料欲しさに全日本プロレス(馬場・日本テレビ)に「土下座外交」を連発し、そのことでさらにイメージを悪化させていました。

 

ジャイアント馬場からしても、国際が新日本プロレスと接近するのは面白くないものの、既に何度も対抗戦を繰り返しており「そろそろ国際プロレスとの関係は潮時か」と感じていたと思われます。

 

>関連記事:グレート草津と国際プロレス

 

ちなみにこの「日本リーグ争覇戦」参加レスラーは、

 

日本リーグ争覇戦

 

<Aブロック>
マイティ井上、大熊元司、ミスター・サクラダ、ロッキー羽田、梁承揮、プロフェッサー・タナカ、ミスター・ヒト、グレート草津

 

<Bブロック>
寺西勇、キム・ドク、グレート小鹿、ディーン・ホー、石川孝志、ラッシャー木村、アニマル浜口

 

Bブロックで出場予定だったミスター・セキ(ポーゴ)は欠場しています。

 

 

続く決勝トーナメントは、両リーグから勝ち上がった7人と、鶴田の争い。ここから「特別シード選手」として当時UN王者だった全日本の“若大将”ジャンボ鶴田が参戦し、同じくシードだった大木金太郎は出場を辞退、デビュー間もない石川孝志が繰り上げ出場となりました。

 

 

鶴田は初戦の準々決勝でマイティ井上を回転エビ固めで下しますが、準決勝でタナカの反則に逆上し反則負けで敗退。

 

 

決勝ではラッシャー木村が、タナカをバックドロップからの片エビ固めで仕留め、優勝を飾っています。

 

 

そしてこの11月25日の蔵前国技館大会に、新日本プロレスからストロング小林と小林邦昭が出場。さらに国際プロレスはその見返りとして、12月16日の「プレ日本選手権」決勝・蔵前国技館大会にアニマル浜口と寺西勇を出場させます。

 

さらに吉原氏は自らも「日本リーグ争覇戦」優勝者であるラッシャー木村と共に、「プレ日本選手権」決勝大会に登場。猪木vsヒロ・マツダの試合前に、「両リーグ戦の優勝者同士による、真の日本一決定戦」をアピールします。

 

 

これは、ここまで長く蜜月関係にあった国際と全日本の提携終了、「国際プロレスが新日本プロレスに乗り換えた」ことを意味していました。

 

12月26日には新日本プロレスと国際プロレスが「『日本選手権シリーズ』を翌1979年に開催する」と発表し、ジャイアント馬場にも出場を要請。しかし、馬場の出場はもちろん、日本選手権シリーズは実現せず。

 

しかし、この一連の動きが1979(昭和54)年、「8・26夢のオールスター戦」開催につながっていくのでした。

 

 

 

>③宿命の一騎打ち―「プレ日本選手権」アントニオ猪木vsヒロ・マツダ戦

コメント

  1. W・D・ウエイト より:

    こんばんは。相変わらずの圧倒的な筆力に恐縮します。両リーグ戦は昭和53年の実施が正しいのかと思います。凱旋帰国ミスター・サクラダの印象が強烈でした。地下足袋から繰り出すトラース(当時はこの言葉はまだありませんでした)とトーキックの間のような蹴りwほぼ全員腹の突き出ていた国際勢が悶絶してた姿は今でも思い出せます。
    当時大人に見えた彼がまだ30歳だったのかと思うと時の流れの速さを感じます。

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