破壊王・橋本真也 最終章① ~ 2002-2004 小川との共闘・ZERO-ONEとの決裂

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プロレス

前回は、破壊王・橋本真也の新団体「ZERO-ONE」旗揚げまでの経緯を取り上げました。

 

NOAH三沢社長の参戦で大盛況に終わった旗揚げ興行ですが、そのまま順調にいかないのが橋本らしさであり、魅力でもあります。

 

今回は、橋本真也の「最終章」前編。旗揚げ戦後、小川とのOH砲結成、全日本プロレス・長州軍との対抗戦、そしてZERO-ONEとの決別までの4年間を振り返ります。

 

旗揚げ第2戦で NOAH 三沢光晴vs U.F.O. 小川直也が実現

 

旗揚げ戦後、橋本は「やるしかないやろ」「UFO対ノアもあるで」などと交渉中のカードをマスコミにバラし、そのたびに三沢社長の顰蹙を買います。

 

 

まだ確定していない交渉中の案件でも口にして、マスコミやファンを煽って既成事実化してしまう橋本はまさに猪木・新日イズム。信用第一、確定していない事は絶対に外にバラさず、全てが整った後で発表する約束を重んじる三沢社長の馬場・全日イズムは水と油で、決して理解しあえる事はありません。

 

三沢社長からすると、4月の有明コロシアムでノアのGHC初代ヘビー級王座決定戦が決定している時期で、その前に対抗戦を話題にされたらそっちに話題が集中してしまう、と怒り心頭でした。

 

実際、旗揚げ第2戦の武道館大会のカード決定は開催直前までズレ込み、3日前でした。それでも、平日にも関わらず超満員になったのは、三沢と小川の直接対決がついに実現したからです。

 

 

2001年4月18日 日本武道館
プロレスリングZERO-ONE 旗揚げ第2戦 ~真世紀創造Ⅱ

 

U.F.O. 小川直也・村上一成の“暴走コンビ”に対し、有明大会で初代GHC王者となった三沢光晴は、パートナーに若手の力皇を抜擢します。

 

この日のアンダーカードと勝敗は、以下の通り。

○高岩vs丸藤×
○星川vs(オリジナル)ザ・コブラ×
○アレクvs杉浦
×大谷vsマッコリー○
橋本・○安田vs井上×・本田

 

セミでZERO-ONE勢がNOAH勢から勝利したことで、メインの結末にさらに関心が高まりました。

 

(U.F.O.)小川直也・村上一成vs三沢光晴・力皇(NOAH)

ゴング前からいつものように三沢に詰め寄る小川。対する三沢はその場で仁王立ちし、一歩も引きません。これだけで、場内は大興奮。

 

はやる村上を制した小川は三沢を指名。
三沢は敢えて無視し、先発を力皇に任せます。

 

小川は執拗にコーナーの三沢を挑発、三沢はガン無視。
結局、村上が小川を突き飛ばして力皇に襲いかかり、ゴングが鳴ります。

 

当然、村上がまだ若手の力皇を攻め込み、大将同士の出番につなぐ・・・かと思いきや、ここで力皇が異様な打たれ強さを発揮します。

 

力士最強幻想と受けの全日スタイルが相まって、場内の視線は力皇に集中します。一方、村上は得意の狂犬パンチを凌がれた挙句、ぶちかましで吹っ飛ばされ、いいところがありません。

 

この後、三沢vs村上を経て、村上が小川にタッチ。いよいよ三沢vs小川の禁断の初遭遇に場内はMAXボルテージに達します。

 

しかしここで三沢は力皇にタッチ。
焦らしで格の違いを見せつけ、小川の気勢を削ぎまくります。

 

まさか、このまま一度も接触なしで試合終了か?となんとも言えない空気になった4分過ぎ。遂に三沢と小川が相まみえます。

 

三沢は小川のタックルを余裕を持って切ると、グランドコントロール。レスリング技術で格の違いを見せつけます。

 

小川は強引に払い腰からマウントポジション、そしてお得意の顔面パンチ!

 

しかしこの直後、小川の背後から力皇が強烈なぶちかまし。小川はそのまま場外に叩き落とされ、ファン待望の両者の攻防は、一瞬で終わりました。

 

そしてそのまま、三沢は村上にエルボーからバックドロップ3連発でピンフォール。

〇三沢・力皇 (6分40秒 バックドロップホールド)小川・村上×

 

小川・村上はインサイドワーク、打たれ強さ、格の面でも良いところがなく、三沢組の完封勝利という印象でした。

 

この日の三沢の戦術には「プロレスの奥深さ、底力を示した」という声と、小川との攻防の少なさに「物足りなさ過ぎる」と賛否両論でしたが、三沢からすればこれこそが「やったもん勝ちの新日スタイル」に対抗する戦い方だったのでしょう。

 

試合後のコメント

 

三沢「物足りない。不完全燃焼。力皇ももっとやりたかったんじゃないか。小川は、思ったよりは力はあるよね。次は分からないけど、やる前とやった後では感触が違うね」

 

小川「三沢、人数だけで勝つと思ってるのか。今度は、まともに勝負してやる」

 

橋本「三沢よ、お前の男気を受け取ったぞ。ありがとうよ。何回でもやってやるぞ!小川は何やってんだ。情けない試合しやがって。ノアにだって乗り込んでやるぞ。2回も恥かかされて。小川、恥を捨てて、三沢のところに行く気はあるか」

 

2002年 ZERO-ONE、新路線に活路

 

さぁここからいよいよ橋本、小川、三沢、小橋らZERO-ONE vs NOAHが本格的に開戦!とプロレスファンの期待は膨らみましたが…結果的にはこれ以降、広がることはありませんでした。

 

橋本流・新日イズムの外交戦略がどうにも気に食わないNOAH・三沢社長と橋本の交渉はことごとく難航。交流は若手のみとなり、尻すぼみして行きました。

 

あくまで「衛星団体」として密かにZERO-ONEをバックアップしてきた新日本プロレスとの間にも、亀裂が生じます。橋本はこの間も、2001.4.9大阪ドームでの佐々木健介戦などでたびたび新日マットに登場し、古巣への奉公を続けていましたが、試合内容は不完全燃焼が続きます。アントニオ猪木と長州力が激しい権力闘争を繰り広げる中で、もはや新日のリングに橋本真也の居場所はどこにもありませんでした。そして旗揚げ戦の大成功で脅威を感じた新日本とNOAHとの交流で自信をつけた橋本の間で遂に交渉が決裂。この武道館での旗揚げ第2戦からは、完全独立を余儀なくされたのです。

 

この間、”宿敵”であった橋本と小川が、「OH砲」として共闘を開始。

 

 

ZERO-ONEは「古き良き、アメリカン・プロレス」路線に活路を見出します。

 

年3回の両国開催、トム・ハワード、プレデター、ロウキー、AJスタイルズなどの独自ガイジンレスラーの発掘、大谷が創設したシングルトーナメント「火祭り」、2003年の新春第1戦として行われたエンターテイメント要素を盛り込んだ「ZERO-ONE U$A」がいずれも大当たり。

 

中でも、小川vsプレデターの金網マッチでは金網設置に40分・試合は7分、金網設営中エンドレスでジョーズのBGM再生、結局金網が完成した際の盛り上がりがこの日のハイライト…など、良い意味でも悪い意味でも「おおらかでトンパチでズンドコ」な、橋本らしさ爆発のバラエティ豊かなB級メジャー路線で妙な存在感を示す団体になって行きました。

 

 

総合格闘技路線「真撃」を巡るゴタゴタ

 

この時期、「イノキボンバイエ」を手掛けるステージアがZERO-ONEと提携し、総合格闘技とプロレスの中間地点を目指す「真撃」ブランドを立ち上げました。

 

オープンフィンガーグローブ着用、スリーカウントなし、ロープブレイク有りの独自ルールで格闘家、パンクラス、ZERO-ONE、バトラーツ、LA道場勢などが入り乱れる「プロ格路線」。これは当時、K-1、PRIDEの隆盛につられた勢力がプロレスラーのネームバリューを当てにした戦略でしたが、プロレスファン、格闘技ファン双方から「中途半端で面白くない」とソッポを向かれる内容に。

 

「真撃」第一弾では小川直也vs藤原喜明の試合後、元リングスの山本宜久が乱入し、それなりに話題を呼びましたが、第二弾大会へのマーク・ケアー招聘を巡り、当時「PRIDEの怪人」と恐れられた百瀬博教氏の逆鱗に触れてしまいます。

 

この影響で小川、村上、ゴルドーらU.F.O.、パンクラス、バトラーツらが次々と「真撃」から撤退。ZERO-ONE・橋本は村八分にされ、猪木からも絶縁されてしまいました。

 

2003年 武藤&川田 全日本プロレスとの全面戦争

 

2003年2月。ZERO-ONEは本格的に、武藤率いる全日本プロレスとの対抗戦路線にシフトチェンジします。

 

ディファ有明で行われたZERO-ONEの興行に全日プロ勢がバス2台で乗り込み、リングを占拠。両軍入り乱れての大乱闘で開戦した対抗戦は、日本武道館で行われた橋本真也vsグレート・ムタの頂上決戦へ。

 

この試合に勝利した橋本は、三冠王者となりました。

 

 

 

5月2日 後楽園ホール。この日は新日本プロレスの東京ドーム(かの悪名高き「ULTIMET CLUSH」)と同日開催でした。ZERO-ONEは超満員札止めの観衆を集め、橋本・小川組vs武藤・小島組をマッチアップして対抗します。

 

試合は小川がマウントパンチで小島をKO、勝利。試合後に川田利明が乱入し「オレを潰すまでは全日本は潰せないぞ!」とアピール、新たな遺恨が勃発しました。

 

 

この時期から、テレビ東京で月1ペースの「破壊王プロレスZERO-ONE」地上波放送も開始されました。

 

橋本最終章のキーパーソン、冬木弘道

 

橋本真也の最終章のもう一人のキーパーソンが、冬木弘道です。

 

 

冬木は2002年2月のFMWの経営破綻後、3月に自ら主催する団体としてWEWを設立。しかし2002年4月9日、15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行った2日後に大腸癌を理由に引退を表明します。

 

その一報と病状を聞いた三沢は、急遽ディファ有明を確保。冬木の引退興行を発表し、ノアはもちろん、永田、邪道&外道、天龍らも協力して4月14日に開催されました。表明から引退試合までの異例の短さや三沢の対応から、冬木の病状の深刻さが推測されました。

 

 

この日、テンカウントゴングは鳴らされず。「引退セレモニーは来年5月のWEW川崎球場大会で」と希望していた冬木は闘病を続けます。しかし癌の進行は早く、死を覚悟した冬木は橋本に対し「電流爆破での一騎討ち」を要請します。

 

 

2003年3月11日 WEW 後楽園ホール大会。橋本が一騎討ち要請への返答を持って来場。冬木はすでに直腸癌が肝臓に転移して容態が悪化、2月28日には再入院しており、この日はドクターの反対を押し切って来場するも、痛み止めのモルヒネで歩行もフラフラの状態でした。

 

後楽園ホールの控室を訪れた橋本とは薫夫人と会い、冬木の容態を明かされます。橋本は冬木の最期の覚悟を知り、対戦を了承。

 

薫夫人から橋本の返答を聞いた冬木は最期の力を振り絞りリングまで歩き、マイクを持ち、宣言。「今年も川崎球場で5月5日、試合をすることが決定しました。相手はゼロワンの橋本真也選手です!」

 

それを受けて橋本がリングに上がります。「冬木さん、俺は返事を持ってきましたよ。くだらない理由はなしで、冬木さんの情熱に負けました。冬木さん、やりましょう!その前に内なる戦いに勝ってください。奥さん、いいですね? 試合しますよ!」

 

 

しかしわずかその8日後の2003年3月19日。冬木弘道は、横浜市民病院で癌性腹膜炎のため死去。享年42歳でした。

 

5月5日、川崎球場WEW大会。橋本は、冬木の代役である金村キンタローと電流爆破マッチに挑みます。橋本は、試合前に冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じました。

 

 

そしてこの時の冬木夫人・薫さんとの出会いが、橋本のその後に大きく影響していくのでした。

 

満身創痍の橋本、全日プロ・長州軍との抗争

 

2003年7月 両国大会。ZERO-ONE 橋本・小川vs 全日本 武藤・川田の頂上タッグ戦が実現。

 

地方巡業も重ねるZERO-ONEは、この両国大会も出し惜しみしないイケイケの姿勢で超満員の観衆を集め、念願のTV地上波放送獲得で着実に躍進しているかに見えたのですが、まさに好事魔多し。

 

6月14日の福島大会で橋本は、右膝十字靭帯損傷及び半月板外側断裂、右脛骨亀裂骨折の重傷を負います。

 

さらには両国の試合中、橋本は川田のキックをチョップで迎撃し右肩を脱臼。この試合にはなんとか勝利したものの、三冠ベルトを返上せざるを得なくなります。

 

中でもこの右肩の怪我は、後々まで橋本を苦しめ続けました。

 

11月、長州力に対する東京スポーツ紙上での口撃が発端となり、伝説の「コラコラ問答」が勃発。ZERO-ONEは、WJが崩壊寸前の「長州軍」との抗争に突入します。

伝説の「コラコラ問答」解説はコチラ

 

12月 両国大会。小川直也vs川田利明戦と、ZERO-ONE軍vs長州軍の全面対抗戦をマッチアップし、超満員札止め9,800人を動員しました。

 

橋本は大谷、田中の「炎武連夢」を含めたゼロワン所属選手のほか、藤原喜明など大勢を引き連れ入場。対する長州軍はわずか4人(長州力、石井智宏、宇和野貴史、矢口壹琅がリングに上がり、和田城功と中嶋勝彦がセコンド)。勢いの差は歴然でした。

 

橋本と長州の2人以外、メンバーが発表されないままに勝ち抜き方式の対抗戦開始。浪口が宇和野に敗れ、横井が宇和野を腕ひしぎ逆十字固めで下し、横井を押しのけて出てきた山笠が矢口に敗れると、佐藤が矢口を三角絞めで仕留めます。続いて、長州軍若手No.1の石井が、橋本を挑発するように垂直落下式DDTで佐々木を下します。これにエキサイトしたZERO-ONE若手が乱入、石井をリンチ。すぐに高岩との一騎討ちに戻りましたが、ラリアット、デスバレーボム、ラリアットと食らって敗退。

 

残り1人となってしまった長州力は、高岩にラリアットを浴びせると、フォールに行かず橋本を呼び込みます。

 

2001年「ドラゴンストップ」以来の長州力vs橋本真也。大技は一切なく、長州のパンチと橋本のケサ斬りチョップ、キックの応酬となりましたが、右下腿ヒラメ筋不全断裂の長州は、右足を蹴り上げられるとのたうち回り、防戦一方に。橋本は反撃のできない長州を蹴り続け、最後はヒザ十字固めでレフェリーストップ勝ちで決着しました。

 

長州は「これで終わりか。潰し合いじゃないのか」と叫ぶと、橋本にラリアットを放ちますが満足に歩けない状態でセコンドの肩を借りて退場。橋本は「こんなんじゃ満足しねえぞ。1対1でやるまでは終わらせない!こんなのに勝ったて嬉しくないんだよ。やるしかないだろ!」とシングルでの再戦を宣言・・・しかし、長州との絡みで毎回、不完全燃焼に終わる橋本は、自身の体調不良も重なり、急速に輝きを失っていました。

 

 

2004年 橋本負傷欠場でZERO-ONEに暗雲

 

2月、橋本は3冠王者となった川田利明から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗北(タオル投入)。生涯で橋本vs四天王とのシングルマッチは、この川田戦のみでした。

 

 

3月 両国大会。「遺恨決着」として再び橋本vs長州のシングルマッチが実現するも、観客の期待度は低く、主催者発表こそ8,000人でしたが閑古鳥の鳴く場内。大会終了後、中村部長が「しばらく両国から撤退します」と宣言。この頃から団体としてのZERO-ONEの勢いにも、明らかに翳りが見え始めます。

 

この頃、橋本は小川の誘いに乗り、「ハッスル」への参戦を開始。しかし8月、とっくに限界を超えていた右肩の手術のため、橋本は長期欠場を宣言します。

 

橋本を欠いたZERO-ONEはこの時期、主力外人レスラーをFEGに引き抜かれるなどして、興行不振が悪化していきました。

 

2005年 橋本とZERO-ONEが決別!フリーランスへ

 

この時期、ZERO-ONE事務所に国税が入り、「税金の滞納で差し押さえの紙が貼られまくった」と後に中村氏が明かしています。選手へのギャラ、社員への給与の支払いも滞り、橋本個人の保険も差し押さえられ、クレジットカードも止められていたと言われます。

 

手術で欠場中の橋本は「このまま続けても負債が増えるだけだ。会社を閉めて、“ゼロワン軍団”として新日プロに乗り込んで合流しよう」と提案しますが、大谷ら全選手が猛反対。後に明るみになる橋本の社長業そっちのけの私生活「女性問題」も絡み、他選手・フロントと橋本の間には、もはや修復不可能な亀裂が生じていました。

 

11月25日、ついに橋本はZERO-ONE崩壊を記者会見で宣言することになります。直前に記者会見を知らされた所属選手の監視の下、異様な雰囲気で行われ、要旨は下記の通り。

 

・有限会社ゼロ・ワンは11月25日をもって活動を停止。

・活動停止の理由は「橋本選手兼代表が二足の草鞋で会社の経営状態の全貌を把握できなかったこと」。
(「蝶野の20周年興行に橋本が単独で出掛けていったこと」も問題視されました)

・12月以降に予定されていた興行は大谷ら選手が「ゼロワン」名義で開催。

・リングをはじめとする練習機材及び試合用設備一式は選手へ譲渡。

・負債は1億

・9月に予定されていた橋本真也の右肩手術は12月に行う。復帰は遅くても半年後。

・意識不明中の星川尚浩選手への対応は、今後橋本個人として誠意をもって対応していく。

・選手契約は今年いっぱいはゼロワンにあって来年からは「株式会社ファースト・オン・ステージ」が行う。

 

橋本を除く全選手は、大谷晋二郎と専務取締役・渉外部長の中村祥之氏を中心に、株式会社ファースト・オン・ステージを設立。「ZERO1-MAX」の団体名の下に再出発することになり、負債は全て橋本が被ることで決着。道場の機材などすべてを失った橋本は、1人でフリーの道を歩むことになりました。

 

この時点での橋本の復帰は「早くて半年後の来年2006年5月頃、復帰場所は未定」とされていました。

 

 

破壊王・橋本真也 最終章②へ続きます。

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